2012年1月アーカイブ

『正義のアイデア』
著者:アマルティア・セン  訳者:池本幸生
出版社: 明石書店
参考税込価格: 3,990円
ISBN-10: 4750334944
ISBN-13: 978-4750334943
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アマルティア・センは、ずいぶん前から気になっていた人だ。 capability という独自の概念によるアプローチがいろいろ議論を呼んでいる。「読みかじり」ではなく、一度ちゃんと読んでみないといけないと思っていた。

インド・ベンガル州に生まれ、イギリス・ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学んだ。1998年、ノーベル経済学賞を受賞したのだから、「経済学者」には違いない。だが、この本には(幸いにして)数式は一つも出て来ない。書名のように主題は「正義」である。

「正義」は、日本社会ではあまり人気のある言葉ではなかった。「正義の味方」は時代劇の世界の話で、現実世界で「正義」なんて言葉を口にしたら、「変わり者」に思われた。むろん、いまでも「正義」は世間一般の日常語ではない。だが、少なくとも議論の対象としての「正義」は流行とは言わないまでも、相当にポピュラーなテーマになっているように思う。マイケル・サンデルの「貢献」が大きいだろう。

残念ながら、そのサンデルはこの本には一回も登場しない。主に論じられているのは、ジョン・ロールズであり、繰り返し引証されるのは、アダム・スミスである。乱暴に言ってしまうと、この本はロールズが『正義論』(2010年に「改訂版」の訳が出た)で論じた「正義」実現のための「理論」を、アダム・スミスが『道徳感情論』の中で説いた「公正な観察者」の「アイデア」によって正そうとしたものである。

ロールズは功利主義に対してトマス・ホッブズに始まる社会契約論を再興することを目指して『正義論』を書いた。センは、そのホッブズからロールズに至るアプローチを「先見的制度尊重主義」と呼んで、批判する。それは「完全なる正義」のみに関心を集中し、現実の社会に目を向けないというのだ。

ロールズの場合で言えば、「原初状態」や「無知のヴェール」といった仮構をもとに、よく知られた「正義の二原理」を導出した。これに対して、センは「公正としての正義」を明確にしたロールズの功績を評価しつつ、ロールズ理論の全体を「想像の世界における正義の実現」を語ったものとして否定する。

『正義論』も「読みかじり」に過ぎないから、センのロールズ批判が的確かどうか私には判断できない。ただ、ロールズは「正義の二原理」に関して「反省的均衡」ということも言っているわけで、センの理解はいくぶん焦点をはずしている気がする。

とはいえ、この本で展開される「正義のアイデア」(「理論」ではなく)は説得的で魅力的だ。またまた乱暴に要約すると、センはどこかにある「完全なる正義」を追求するのではかなく(そんな「唯一の正義」はない、というのがセンの考え方だ)、私たちが現に生きている社会をよりよくしていくために(不正義を減らしていくために)、実現ベースでものを判断しましょう、と提案する。そこでは規範的な正義論ではなく、「比較」の視点が強調される。

では、どのように「より多い正義/より少ない不正義」を比較するのか。ここでのセンの提案は残念ながら、とびっきりの「妙案」というわけではない(むろん、そんな「妙案」はないのだが)。そこに登場するのが、スミスの「公平な観察者」である。人々の偏りのない、理にかなった討論を通じて、一歩一歩この世界に存在する不正義な状況を改善していく民主主義の実践が、そこでは求められている。

この「不正義な状況を改善していく」際に、ケイパビリティ・アプローチが重要になってくる。ふつう「潜在能力」と訳されているが、この本では原語をそのまま使っている。たしかに「潜在能力」には「日本語」としての独自の意味の広がりがあり、センがケイパビリティという言葉で語ったアプローチと隔たりが生じるおそれがあるだろう。ケイパビリティ・アプローチは、個々人の置かれた具体的状況を抜きにその個々人の暮らしの良さを判断することできないと考える。この観点からは、たとえば貧困は低所得としてではなく、個々人の価値ある生活の諸機能――ケイパビリティの欠如としてとらえられる。

マスメディアの重要な役割についてもふれられていて、大学で「ジャーナリズム」を教えている私の立場としては「わが意を得たり」の思いではあった。ただし、マスメディアの「現実」がセンの熱い期待に応えているかどうかとなると、残念ながら、懐疑的にならざるを得ないのだが。
『日本を捨てた男たち』
著者: 水谷 竹秀
出版社: 集英社
参考税込価格: 1,575円
ISBN-10: 4087814858
ISBN-13: 978-4087814859
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自業自得だと言えば自業自得だし、同情する余地もないと言えばその通りだ。日本でフィリピンクラブに通い詰め、女性を追い掛けてフィリピンに渡り、金の切れ目が縁の切れ目で、ついにはホームレスになってしまった男たち。こうした日本人を行政用語では「困窮邦人」と呼ぶそうだ。フィリピンでホームレス…。自己責任以外のなにものでもないかもしれないが、そうした姿の向こうに現代社会の何かが見えるのではないか。日刊マニラ新聞記者の著者は、何年もかけてフィリピンの困窮邦人たちを丹念に取材していく。

工場の非正規労働の空虚さから逃げ出した男。50歳を超えて新聞配達をすることに疲れ果て、偽装結婚で訪れたフィリピンに夢を求めてしまった男。まじめ一筋だったけれどフィリピン女性の優しさにおぼれてしまった男。15万円もあれば日本へ帰れるのだが、日本大使館は渡航費用を出してくれず、家族とは絶縁して援助はしてくれない。確かに、日本の労働問題や家族関係、邦人保護の問題が透けて見えてくるかもしれない。

しかし、ことはそう紋切り型に終わるのではない。「困窮邦人は自分の都合のいいことしか言わない」。筆者はインタビューをした困窮邦人の話の裏を取るため、日本で家族や元同僚などを丁寧に取材する。その裏取りは緻密だ。家族に見放された者もいれば、寝たきりになっても異郷にいる息子を助けたいと言う親もいる。筆者からの援助を期待して同情を買うために嘘をついていた男もいる。下半身不随になってフィリピンの障害者施設に収容されている男は大学卒を自慢するが、まるっきり見栄で、学歴詐称だった。それぞれの事情は複雑だ。

人生のどん底に落ちた人間の生がむき出しになっている。誰が悪くて、誰が悪くないのかが分からなくなってくる。著者は同情と怜悧さの両方を持ちながら、男たちの人生を追っていく。このどうしようもない男たちを通して、人間の欲望や感情の混沌さをありのままに描いている。

一方、そんなホームレス日本人に対して、フィリピン社会は優しい。何の関係もない男に店を手伝わせて食事を与えたり、施設では介護士が無料で世話をしたりしてくれる。カトリックの影響もあるが、「私たちは貧しいので、食べ物はみんなで分け合って食べるというのが根付いています」と援助をするフィリピンの中年女性。もっとも転落の始まりはフィリピン女性が男を捨てたことに始まっているのだが、背景にはフィリピンの貧困の問題もあり、事情は入り組んでいる。

だがやはり、フィリピンの人たちの温かさと比べると、日本の「無縁社会」が悲しくも感じられてくる。不思議なのは、日本の帰国できることになってもフィリピンにとどまるホームレスの男もいることだ。帰れないのだろうか、それとも「帰らない」のだろうか。著者はまだ答えを出していないが、「日本を捨てた男たち」というタイトルをひっくり返せば「捨てられた日本」となる。長い取材をへて、そんな問題意識が芽生えてきたという。

いまの日本で生きることは幸福なのだろうか? 「死んじゃった方がいいと思う」とまで同胞から言われてしまう男たちの姿から、ぼんやりとして割り切れない生きづらさに満ちた日本社会が浮かんでくる。その像は乱反射しているが、そのことが本書を出色のルポルタージュたらしめている。昨年の開高健ノンフィクション賞受賞作。(了)

『プレニチュード』
新しい〈豊かさ〉の経済学
著者:ジュリエット・B・ショア  監訳:森岡孝二
出版社: 岩波書店
参考税込価格: 2,100円
ISBN-10: 4000246682
ISBN-13: 978-4000246682
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ギリシャの財政危機から始まり、スペイン、イタリア、ポルトガルと危機の様相が拡大し、ヨーロッパ全体が経済的な危機に見舞われている昨今である。欧州通貨のユーロが、100円を割り、ほぼ11年ぶりの円高ユーロ安になった。アメリカの経済も低迷し、2桁成長を続けてきた中国の国内総生産も10パーセントを割るという。2008年のリーマンショックに端を発した世界金融危機は、一時的に回避されたものの、世界的な経済危機は悪化の一路をたどるばかりである。

ひるがえって、日本はどうかと言えば、東日本大震災後の復興費用と、福島原発事故に伴う全く先の見えない膨大な支出を想定するまでもなく、国家財政の赤字は既にギリシャをも凌駕している。にもかかわらず、国全体にその危機感は乏しい。政府は消費税の増税で、その場を凌ごうと目論んでいるものの、それが有効な手立てとなるという保証は全くない。消費増税により、消費が冷え込んで却って税収も減ると危惧する人もいる。一寸先は闇である。

この本は、2008年のリーマンショックによる世界金融危機と、2009年にかけての製造業の恐慌的な落ち込みの中で記されたものだという。経済(エコノミー)の危機と、環境(エコロジー)の危機という、複合危機をどう乗り越えるか? そこに、副題となった「新しい<豊かさ>の経済学」を提起して見せるのだ。

グローバル資本主義は2008年に瓦解したと著者は言う。金融システムは全面的崩壊の危機に瀕したが、政府保証と大規模な資本注入によってかろうじて救済されたものの、回復には至っていない。そしてこの間、全世界で50兆ドルという驚異的な額の富が消えた。この悪循環から脱出するためには、従来型の経済システムとは違ったパラダイム転換が必要である。

市場原理優先のこれまでの経済は、地球環境の持続よりも、経済成長の持続を優先し、環境破壊的で大量のエネルギー消費を前提とした経済構造を作り出してきた。まさに日本は、このために原発を必要としてきたのだ。それはまた、人びとを働き過ぎと浪費に追いやり、家族や地域における人と人とのつながりを弱めてきた。巨大企業に経済活動を集中させ、中小企業、自営業、家庭内生産の縮小を招いてきた。

このあたりは、『働きすぎのアメリカ人』『浪費するアメリカ人』などで、働き過ぎと浪費の悪循環を論じてきた著者ならではの視点である。著者は、経済と環境の複合危機を乗り越える鍵を、労働時間の短縮に求め、それによって、地域や家庭における人々の協力・協働を強め、市場経済の外へと経済活動の拡大を促し、小規模生産を振興する必要性を示唆する。

経済的な豊かさが必ずしも幸福につながらない。お金を稼ぐためにより長時間働かなければならず、労働時間が増えれば幸福感は減退する。そして、自然そのものも幸福の源泉であるという著者は、家庭菜園やコミュニティ・ガーデンの拡大、化石燃料に依存しない自然エネルギーの活用など、新しい生活様式の小さなコミュニティーの中での拡がりに新しい〈豊かさ〉を見る。

新しい〈豊かさ〉が力を増しているのは、「バラバラになった私たちの暮らしを修復し、魂をいやし、金銭や消費とはほとんど関係の無いやり方で、私たちを真に豊かにすることができるからでもある。そして、そうするなかで、一歩一歩、人間のより良い在り方を構築しはじめるのである。その過程で、素晴らしい地球の豊かさと美しさ、そして、地球上のあらゆる生物の回復が約束される。これ以上の解決法はない」と、著者は結語する。
東日本大震災と原発事故以後、脱原発による日本経済の復興を考える上でも、さまざまに示唆的な一冊である。
『眼の海』
著者: 辺見庸
出版社: 毎日新聞社
参考税込価格: 1,785円
ISBN-10: 4620320730
ISBN-13: 978-4620320731
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詩とは語ろうとして語りえないもの、語ってはならぬものを語ることだ、と著者はあるところに書いていた。それは石臼のようにわたしをひきつづけ、見えないものをことばにつむぐこと、それはわたしたちを縛りつける禁忌を破り、ことばをできるだけ遠くまで放つこと、それは〈がんばろう日本〉の大合唱に抗し、海と地と空をつないで、ひそやかな挽歌をひとりひとりの死者に送り届けることでもある。

石巻市南浜町で青春時代をすごした著者は、3・11の大震災で多くの友人や知り合いを失った。だから、ここで語られるのは見知らぬ遺体ではなく、多くが顔も姿も声も知っていた、わたしの死者である。つづられた51の詩篇からは、いくつもの物語や光景が、色とりどりの花や生きとし生きるもの、月や星々をともなってよみがえってくる。耳をすませば、そこからは慟哭や詠嘆ばかりでなく、怒りと祈り、そして哄笑や罵倒の声さえ聞こえてくるだろう。

詩はあの災厄の日から「復興を」の声かまびすしい10月にかけ、みずからの身をさいなむように彫鏤された。大きく「眼の海」と「フィズィマリウラ」の章にわかれる。前者が3・11そのものをえがくとしたら、後者はその後をつづる。悲しみから怒りへ、そして大いなる予感へと感情は深まり、たかまっていく。

じつはほとんどだれも震災を見ていないのだ。テレビに流されているのは、市民生活を侵犯しないヴァーチャルな光景でしかない。そこには時にちぎれた首、足、小指、すなわち物自体と化したわたしの死者は登場しない。偽造の風景に、ことばは届かない。「わたしの死者ひとりびとりの肺に/ことなる それだけの歌をあてがえ/死者の唇ひとつひとつに/他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ/類化しない 統べない かれやかのじょたちのことばを」

宇宙のほんのわずかな身じろぎにすぎない地震と津波によって、街も人も流れ去った。だが、そのとき眼のおくに街と人がよみがえる。厩舎、銭湯、ジョロヤ、麦畑、松林、入江、パルプ工場、市営住宅、運動会、空飛ぶ円盤……。それは破壊であり、無化であり、創世でもあった。地上の光景はどこかで見た光景と似ていた。たとえば、ヒロシマの小学校や、爆撃されたサラエヴォの図書館に。それはデジャビュ(既視感)にちがいなかったが、どこかでジャメビュ(未視感)のようでもあった。災厄はおそらくまだはじまったばかりなのだ。

あるインタビューで、著書は震災後、世間にあふれだした「人に優しく、力を合わせて」といった言葉に「強い違和感」を覚えたと語っている。内面の自己規制がはびこるなかで、あえて選んだのは「語ってはいけないものを語ることだった」という。抵抗しようとしたのは、のっぺらぼうな〈復興の精神〉に対してである。それは〈個〉であるわたしが死んでも、われわれの〈日本〉は生きるという大合唱にほかならなかった。壁はあちこちから迫ってきた。

大震災後の夏、著者はひどい抑鬱状態におちいる。時に夢魔や幻影が襲ってくる。汚れた街のみぎわを死者たちが音もなくうごいていく。死をまぬかれた人が暗緑色の汁をはいて、死んでいく。どこかから銹のにおい、血のにおいがただよってくる。ニセキチガイと判定され、入水をしいられる。救援食料のカップラーメンの汁をはきだして逃げるわたしを公安が追いかけてくる。 そして、津波で痕跡が押し流されるある殺人の光景。盲者の女を犯し殺したのは、唖者のわたしだったのか。それらもまたつづられねばならない。

死者の魂ははるか海へ宇宙へと広がっていく。そのいっぽうで、次から次へわいてくる腐生菌のような影たちへの嫌悪、死者を食いものにする因業坊主にも似たビジネスへの罵倒も口をつく。だが、思い浮かぶなかで、もっとも語ってはいけないもの、それは「がんばろう日本」の大合唱とは真逆の人類滅亡後の光景だった。「ヒトという現象は だが/もうすこしで終わる/痕跡はのこらない/フィズィマリウラが/赦しの秘跡を/しきるかもしれない」

かつて武田泰淳はこう書いたことがある。「大きな慧知の出現するための第一の予告が滅亡であることは、滅亡の持っている大きなはたらき、大きな契機を示している」。慧知の出現する可能性はまずない。とはいえ、滅亡は希望のはじまりでもありうる。その日のために人は黙々とリンゴの木を植えるだろう。
『こども東北学』
著者: 山内明美
出版社: イ−スト・プレス
参考税込価格: 1,260円
ISBN-10: 4781690203
ISBN-13: 978-4781690209
4781690209.jpgあたりまえのことは、はたして本当に「あたりまえ」なのか。いかなる条件のもとで、それは「あたりまえ」とみなされているのか。この問いを、〈まん中〉から〈東北〉と名指された場所を起点にすえて考えようというのが本書である。

たとえば、東北が「米どころ」の地位を確立したのは、じつは戦後になってからであるという事実は、あまり知られていない。稲はもともと熱帯(亜熱帯)気候原産の植物であり、寒冷地の東北地方でコメをつくるのは、技術的にとてもむずかしいことだった。歴史的に飢饉に悩まされてきたこの地が穀倉地帯化していく背景には、品種改良をはじめとした農業技術の進歩もさることながら、戦中の食糧増産政策、そして敗戦による植民地(朝鮮・台湾)の喪失などがあった。つまりそれは、国家=〈まん中〉が要請したものだった。

ところが、1966年に日本がコメの自給を達成したころ、逆に国内のコメの需要は低下し、政府は1970年から減反政策を実施することになる。それ以降、米価は下落。現在、一般にスーパーなどで流通しているコメは、生産者が出荷するときには一俵(60キロ)約1万4000円である。一枚の田んぼから仮に600キロ収穫できたとしても14万円、そこから種籾代や肥料、機械などの費用を引くと、実収入は7万円ほどにしかならない。食糧があふれればあふれるほど、苦しくなる一次産業の現実。農業が縮小し、若者たちが都市へ働きに出て、農村が疲弊の度合いを増してくるなかで、原子力発電所は建てられたのである。

宮城県の三陸沿岸部の村で、「百姓のこども」として育った1976年生まれの著者は、土も海も放射能で汚染されて台無しになっている現実を目の当たりにして、〈まん中〉に合わせて努力してきた祖父母や両親、また、〈まん中〉に呪縛されながら生きてきたみずからや友人の姿をふりかえる。そして〈東北〉に〈まん中〉への従属を強いた社会の仕組みをみいだそうとする。

〈東北学〉の思考法は、「自分がここにあるということ」に軸足をおき、生まれ育った土地の「傷つき」に耳をすまし、身近な大切な人たちに連なる哀しい記憶をたぐりよせることだ。歴史のなかで、くり返しくり返し、大津波や地震、豪雪や火山の噴火、飢饉に悩まされ、さらには食糧の、労働力の、そして電力の「供給基地」たることを余儀なくされてきた〈東北〉の土地と人びと。それは必然的に〈まん中〉の歴史と対立する。

〈東北〉の無残な「なつかしい風景」を見ながら著者は思う。〈東北〉を犠牲にしてつくり上げられた〈まん中〉の「あたまりまえ」とは何か。≪「生きること」を全うしようとする意志が根本的に薄れてしまってはいないだろうか。「生きること」とは、自分と、自分をとりまく人びと、自然やこの世界との関わりに支えられて成り立つ、毎日の暮らしのことだ。(中略)この国に生きるひとの多くが、もはや、原発と田んぼが共存している風景を不思議だと感じないほどの鈍感さの中で、自分自身への「加害」が起こってしまったのだ≫。そして言う。

≪わたしたちは、あたりまえに生きようとする意志さえ、喪失してしまったのだろうか。(中略)農業や漁業といった生業は、食糧を生産するだけの労働として存在するのではない。農業や漁業といった「生」のありかたが大切なのは、土地や海といった自分をとりまく世界に働きかけながら、いのちそのものを生み出す暮らしをかねそなえているからだ≫。

借り物でない思想は、つねに自分の足もとから生まれる。「あたりまえに生きようとする力」を仲立ちとして、著者の〈東北学〉がはじまる。
『君のいない食卓』
著者: 川本三郎
出版社: 新潮社
参考税込価格: 1,470円
ISBN-10: 4103776056
ISBN-13: 978-4103776055
4103776056.jpg誰かと食事をして何を話したかは猛スピードで忘れていくのに、何を食べたかはよく覚えている。その誰かのことを思い出すとき、食べものの記憶もよみがえってくるのは、不思議な現象だと思う。

本書は、UCカード会員誌「てんとう虫」に、2007年から2010年にかけて連載された「食」のエッセイを編んだ本(「回転寿司の卵焼き」と「居酒屋の油揚げ」は書下ろし)。「てんとう虫」編集部から、2007年2月に連載を依頼されたとき、著者ははじめ、ためらったのだそうだ。前年の2006年に妻の川本恵子さんが食道がんと分かり、看護のために仕事を減らしていたときだった。考え抜いた末に引き受けたのは、食を書くことで料理好きの妻のことが書けると思ったから。〈大事な「君」を自分の記憶のなかに食と共にとどめたかった〉(「あとがき」より)。そして連載を始めると、不思議なことに、「君」は妻だけでなく、親、きょうだい、学校の先生、職場の先輩、同僚など、これまでにめぐりあったさまざまな「大事な人」に広がっていった。〈何を食べても、昔のことが思い出されてしまう。これから先より、過ぎ去った時間のほうがはるかに長いのだから仕方がない。食とは思い出であると、いま、心の底から思う〉、〈食は彼らと共にある〉。

〝もの書き〝としての川本三郎さんのキャリアは長いが、私が拝読したなかで印象に残っているのは、サム・シェパード著、畑中佳樹訳『モーテル・クロニクルズ』(ちくま文庫、1990年)の解説だ。この解説で、川本三郎さんは、サム・シェパードのことを〈バッドランズを旅し続けている男だ〉と書いていた。「バッドランズ」(Badlands)とは、人間が住むのには適さない、神に見離された、忘れられた土地。以前目にして印象に残った一文にもとづく、個人的に飛躍した連想なのだが、私はこの『君のいない食卓』を読んだとき、川本三郎さん自身が「バッドランズを旅する者」だったのではないかと思ったのだ。

川本三郎さんは昭和19年生まれで、父親を戦争で亡くしている。物心ついて目にしたのは、敗戦後まもない、貧しく荒れ果てた東京である。著者に限らず、復興を遂げるまでの貧しい時代を生きた人々は、「バッドランズを旅する者」だったのかもしれない。その時代、ウナギは贅沢なものだった。父親がシベリヤ抑留から戻り、急に「親のいる子供」になった上級生の家でケーキをふるまわれ、自分の父親は戻らない寂しさで少し苦く感じたこと。ウナギに始まり、母のオムライス、後楽園球場で姉に買ってもらったホットドッグ、熱燗、梅干し、カルビスープ、猫めし、ポテトサラダ、だし巻卵、果ては〝ただの水〝まで、出てくる食べものは日常的なものばかりだ。しかしこの本には、人々がいさましく生きていた戦後の記憶が、ものの見事に書きとどめられている。本書を手にとったときの私の第一の関心は、川本三郎さんの新著であることで、「食」は二の次。読んでみると、素晴らしい本だった。味わい深くて、滋養がある。うまいなあ……と堪能させられた。「食エッセイ」の醍醐味とはこれか。本書は「食エッセイ」の逸品である。

エッセイ連載中の2008年6月、著者の妻は57歳の若さで亡くなった。現在進行形だった妻との食卓でのやりとりが、本書の後半には、記憶を反芻する過去形になっている。さまざまな「大事な人」はいなくなってしまったが、記憶のなかに生きている。
さあ、あしたは何を食べよう。あしたは必ずやってくる。

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