2011年9月アーカイブ

『ケアの社会学』
当事者主権の福祉社会へ
著者: 上野千鶴子
出版社: 太田出版
参考税込価格: 2,993円
ISBN-10: 4778312414
ISBN-13: 978-4778312411
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大変勉強になった。といっても、「社会学」にはむろん、「ケア」に関しても「ど素人」だから、当然のことながら「やさしい本」ではなかった。

ケアとは何か。著者は「依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組のもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係」という定義を採用する。ケアは社会的・歴史的な文脈に依存する「ケアする者」と「ケアされる者」とのあいだの相互行為なのである。

この相互行為の内実は、「ケアされる者」のニーズ(必要)と「ケアする者」のサービスの交換である。しかし、相互行為といっても、この交換は圧倒的に非対称である。ケアの与え手は相互関係をやめることができる。だが、受け手はそうはいかない。だが、そうした非対称にもかかわらず、この相互行為はまずニーズがあって初めて関係が取り結ばれる。相互行為を構成する複数のアクターのなかで、第一義的な「当事者」はニーズを持つ「ケア」の受け手である。

1998年にNPO法と介護保険法が成立したことによって、ケアをめぐる世界は大きく変わった。この時期を挟むケアの現場の変貌を,著者は長期にわたる調査をもとに詳細に描いている。対象は、九州に拠点を持つグリーンコープ連合の福祉ワーカーズコレクティブの活動と秋田県鷹巣町(現在は合併して北秋田市)の「ケアタウンたかのす」などの事例である。

「国家」「市場」「家族」のそれぞれの「失敗」が明らかになった現在、福祉は福祉多元社会として構築されなければならない。著者は、官(国家)/民(市場)/協(市民)/私(家族)の各セクターからなる四元モデルを示す。そのうえでケアの社会化を考えるとき、協セクターがケア労働を担うことが最適だと指摘する。その通りなのだろう。だが、著者の協セクターへの熱い期待を、私はいくぶん冷ややかな思いで読んだ。

事例研究の中で私がもっとも興味を持ったのは、協セクターではなく、官セクターの「ケアタウンたかのす」の「成功と挫折の物語」である。「ケアタウンたかのす」の「成功」によって、鷹巣は一時期、「日本一の福祉の町」と呼ばれた。しかし、その路線をリードした町長の選挙戦での敗北を機に「挫折」へ向かう。前町長の陣営は住民の持続的な支持を取り付けることに失敗した。「日本一の福祉の町」を生み出したのが住民なら、それを「挫折」させたのもまた住民だった。「地方分権改革」と呼ばれた中央の政策もまた逆風になった。

しかし「挫折」したとはいえ、ここには大いに可能性があるのではないか。もちろん官セクターの果たすべき役割は本書でも指摘されている。だが、福祉多元社会の達成には結局、官セクターが構築する土台と構造が決定的に重要なのではないか。

ケア労働の値段はなぜ安いのか? 著者は、この問いかけを繰り返す。「制度と政治が、そしてつまるところ有権者である国民が、ケアワークの社会的評価をその程度に低く見ている」のである。したがって、「政治」を動かし、「制度」を変えなくてはならない。最終章の「次世代福祉社会の構想」では、「ケアを必要とする高齢者・障害者・乳幼児を含めた老・障・幼統合のユニバーサルな『社会サービス法』が提案される。

副題に「当事者主権の福祉社会へ」とある。ケアの受け手、とりわけ日本の高齢者はニーズの主体として「当事者になっていない」と著者はいう。「超高齢社会のもとでは、誰もがサービスユーザーになる潜在的可能性を持っている」にもかかわらず、というわけである。著者は、こうした広範な人々が「当事者主権」を行使することを通じて「社会サービス法」が誕生することを構想している。

「当事者」について、「初版への序文」には「『当事者』インフレーションを避けること」の必要性が言われている。だが、「次世代福祉社会の構想」では、潜在的可能性を含めれば、要するに「みんなが当事者なのだから」と言っているに等しい。分厚い本を読んできた最後に、なんだか「最後はみんなケアを受ける身になるのだから、しっかりした社会を作らないといけませんね」といった〝訓戒〝(それ自体まことに正しいが)を読まされた気になった。

「あとがき」に「通常の書物の三冊分はゆうに超える本書を、読み通してくださった読者に感謝したい」とある。たしかに読み終わるのには相当な時間がかかった。だが、まもなく「高齢者人口」にカウントされる身(当事者?)として、ここで論じられている問題はむろん「他人事」ではない。いろいろな問題を考えさせてくれたのだから、一読者として、労作をものした著者にこそ感謝したい。
『革命家・労働運動家列伝』
著者: 樋口篤三
出版社: 同時代社
参考税込価格: 2,100円
ISBN-10: 488683700X
ISBN-13: 978-4886837004
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本書のタイトルを見た瞬間に「なんて本を選ぶんだ」「お前は絶滅危惧種の左翼か」などと顔をしかめる御仁もおられよう。とりわけ団塊世代より上の学生運動を経験した人々はそうであろうと推察する。しばし、お待ちを。まさにその嫌悪感、アレルギー感を問題としたいところなのだ。長髪を切って、企業戦士へと反転した世代には、革命なんか忘れたよ、と思い出したくもない過去の汚点なのだろう。しかし、そのおかげで、われわれ「革命を知らない世代」は何の歴史も伝えられてこなかったようだ。

目次を見て、軽いショックを受けた。「列伝」に登場する革命家の名前を私は一人も知らなかった。高野実、春日庄次郎、鈴木市蔵、中西功、一柳茂次…。それなりに歴史の知識はあるつもりだったが、名前の字面すらこれまで見たことがない。さらに前書きを読んで驚いたのは、「列伝」とはまさに「史記」の「列伝」を意識して書いたという。左翼が封建主義の根本思想である儒教に基づく「史記」にならうとは…。

しかし通読して合点がいった。著者は1947年の東芝労組をスタートに、京浜労働運動、三里塚闘争、国鉄分割民営化反対をたたかい続け、60年余を「職業革命家」(職革と言うそうだ)として生き、昨年に81歳で亡くなった。日本共産党を2回除名というところがみそだ。著者は「日本共産党にはあれだけ膨大な党史がありながら、革命家列伝はゼロ…実は列伝があって、その人物は一人だけ。宮本一〇〇%史観だ」と書く。「総じて左翼は人間論が弱い」とも書く。この列伝に取り上げられた人々はすべて、宮本顕治率いる「日共株式会社」を追放された、党からすれば「人民の敵」たちなのだ。しかし、党には「仁」がないが、彼らには「仁」があったと著者は言う。この点において史記列伝と革命家列伝が架橋されている。

総評結成に中心的役割を果たした高野実は、少数派から多数派を形成する鬼才と呼ばれ、「自分自身のアタマで知恵で発見し自覚し覚悟をきめていく」と共産党の非人間的な綱領主義に相対した。戦前に特高検事からも「その革命的熱意と献身的努力とは、事の善悪は別として驚嘆に値するものがある」と言わしめた老ボルシェビキ・春日庄次郎は晩年に新左翼の内ゲバを「体を張って」止めようとした。国労の闘志・鈴木市蔵は小学校卒で現場からたたき上げ、労組大会で浪曲師に義理人情をうならせるというお茶目さがあった。

左翼であっても最後は人間、そして儒教的な仁愛なのだと著者は本書で繰り返し強調している。「敵」ながら保守合同を成し遂げた三木武吉を「漢の高祖」に比するし、「地位も名誉もいらず、命を惜しまず」「志士仁人」とまるで武士道のように革命家を称える。一方で、宮本顕治が戦争直後、みながコッペパン1個しかないのに、白米と卵焼きの入った弁当を平気で広げていたことに激怒する。確かに思想以前に「人としてどうよ?」というエピソードではある。

私は20世紀の社会主義は失敗だったと思うし、独裁や内ゲバの惨劇を生んだと知っている。しかし一方で新自由主義をひた走り、格差社会を深刻化させたこの20年の日本にも疑問を持っている。そして、3・11が起き、日本は大きく変わらなければいけない岐路に立ってしまった。脱原発デモでは、若者たちが、赤旗を掲げるのではなくてラップ音楽に乗って、新しい抗議のスタイルを見せている。それでも警察は相変わらず「転び公妨」のようにそんな若者たちを逮捕する。

この大変な時代に、敗北した革命家たちの理論はもはや有効ではないとしても、その人間力にはなにがしか学ぶことはある。著者は自分の墓に「仁」の文字を刻んだという。そこに悲痛さとともに、少数者の燃えたぎる情念を感じる。知られてこなかった人間史に触れた思いがする。
『リトル・ピープルの時代』
著者 :宇野常寛
出版社: 幻冬舎
参考税込価格: 2,310円
ISBN-10: 4344020243
ISBN-13: 978-4344020245
4344020243.jpgこの本のカバーには、赤いスカーフを首に巻いた、横向きの仮面ライダー1号の上半身の写真が使われている。しかし、帯にも目次にも、ライダーの文字は無い。3年前に『ゼロ年代の想像力』でデビューした著者の書き下ろし評論集だが、ここに仮面ライダーがどう絡んでくるのか? 前作が刺激的だっただけに、興味深々で読みはじめた。

東日本大震災と、それにともなって原発が爆発して以降の日本は、日常と非日常の境界が融解した危機とともに生きる想像力を必要としていると著者はいう。人間が生み出したものでありながら、いまや人間のコントロールを離れ、私たちの生活を内部から蝕みはじめている、もはや誰にも制御できない無意識に刷り込まれていくであろうこの感覚が、どのような想像力を生むのだろうか? 「こうして考えたとき――私が真っ先に思い出したのが村上春樹の存在だった」として、著者は阪神淡路大震災の後に発表した、連作短編集の『神の子どもはみな踊る』のなかの一作「かえるくん、東京を救う」に登場する「みみずくん」に思い当たる。いまの日本社会に「みみずくん」のような存在を捉える想像力が不足しているのだと。

著者は、ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』に登場する独裁者ビッグ・ブラザーと、春樹が『1Q84』で造語したリトル・ピープルをキイワードにして、春樹作品の変容を丹念にたどって見せる。ビッグ・ブラザーとは、アメリカ帝国主義だったりスターリニズムだったりと、国民国家を形成する大きな物語が発揮する権力であり、体制やシステムの比喩でもある。初期の春樹作品は、ビッグ・ブラザーへのデタッチメントを倫理としてきたが、1995年の地下鉄サリン事件に象徴される想像力を超えた社会の変化に立ち会い、コミットメント舵を切る。

「村上春樹はビッグ・ブラザーがゆっくりと壊死する時代に私たちの生が直面する二重性を、その鋭敏な嗅覚で察知し、小説として再構成し数々の豊かな想像力を発揮した。しかし、完全にビッグ・ブラザーが死に絶え、リトル・ピープルだけが存在する新しい世界を、新しい時代の私たちと世界との関係を、「巨大なもの」のイメージを、彼は多くの手がかりを提示しながらもまだ捉え切れていない。」
内外で圧倒的な存在感を誇示している村上春樹の想像力をしても、加速度的に進行しているリトル・ピープルの時代に追いつくだけで精一杯なのだという著者は、国内外で春樹と比肩しうるポップカルチャーに着目する。

こうして登場してくるのが、ビッグ・ブラザーとしてのウルトラマンと、リトル・ピープルとしての仮面ライダーなのである。ビッグがウルトラマンで、リトルが仮面ライダーとは、あまりにも分かりやすいが、それはギャグではない。春樹の作品群を1968年から振り返るとき、ビッグ・ブラザーが徐々に壊死し、リトル・ピープルの時代を迎えるまでの時間を、この二人のヒーロー分析を通して考察するというわけだ。

ちなみに、「ビッグ・ブラザーの時代」は1968年までで、国際秩序は「冷戦」。悪のイメージは「怪獣」。ヒーローは「(第一期)ウルトラマン」。「ビッグ・ブラザーの解体期」は、1968~1995年(日本)2001年(世界)で、同様に「冷戦→グローバリゼーション」「怪人」「(第二期)ウルトラマンと(昭和)仮面ライダー」。「リトル・ピープルの時代」は、1995年(日本)2001年〈世界〉以降で、「グローバリゼーション」「悪のヒーロー」「(平成)仮面ライダー」となる。これも理解しやすい。

戦後を代表するヒーロー番組ウルトラマンは、戦後の文化空間において、「安保体制の寓話」として機能したという分析は面白い。そして「政治の季節」の終わりが明白になった1971年4月2日、「帰ってきたウルトラマン」の放映が始まる。また、そのライバルとして登場した仮面ライダーは、「政治の終わり」を象徴するかのように、その世界から徹底して政治性を排除するとともに、物語性も排除する。

「1968年から始まったビッグ・ブラザーの壊死と、その結果出現したグローバル・ネットワーク化のもたらしたリトル・ピープルの時代の臨界点に発したものを、私はたまたま日本の特異なポップカルチャーの進化の中に見出しているに過ぎない」といいながら、本文500ページ余の半分以上を割いて、ウルトラマンと仮面ライダーやロボットアニメなどの分析に当てるのだが、とりわけ平成仮面ライダーについての論究は熱を帯びる。

そして、リトル・ピープルの時代においては、「いま・ここ」に留まったまま、世界を掘り下げ、どこまでも潜行し、多重化し、拡大することで世界を変えていくことができる。それは革命ではなくハッキングすることで世界を変化させていく「拡張現実の時代」だと、3・11以降の方向性を示唆する。仮想現実的な虚構の時代から、リトル・ピープルによる拡張現実の時代へ。この本の後書きに記された個人的な思いが、そのままリトル・ピープルへの思索とかさなるところが泣かせる。
『福島の原発事故をめぐって』
いくつか学び考えたこと
著者: 山本義隆
出版社: みすず書房
参考税込価格: 1,050円
ISBN-10: 4622076446
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福島の原発事故が起こるまで、ぼくの原発に対する考えは、便利で快適な生活のためなら原発もやむをえないかという、きわめて打算的なものであった。原発から生じる放射性廃棄物の処理が困難であることも知っていたが、土中に埋めて密封してしまえば何とかなると思いこんでいた。スリーマイル島やチェルノブイリなどの大事故から原発はこわいという認識はもっていたけれど、管理体制のしっかりしている日本では、アメリカやソ連でのような人為的ミスによる事故は起きないものと信じていた。まさか地震と津波が大事故の引き金になるとは思いもしなかったのだ。今回の事故は、そんなあまい現状追認の見方を根本からくつがえした。

そもそも原発とは何かがわかっていなかったのではないか。そんな思いから読んだ本書の記述は淡々として簡潔であり、不安や危機感をあおったり、政府や企業を攻撃したりする政治パンフのたぐいからはほど遠い。むしろ、いま誰もが考えなくてはならない課題を集約して提示し、新たな出発に向けての国民的合意と決意が必要であることを訴えた真摯な書と受けとめた。

著者はまず日本でこれまで原発建設がしゃにむに推進されてきた歴史的経緯をふり返るところからはじめている。高度成長がはじまるころの日本では、「原子力の平和利用」がまるで天恵であるかのように語られ、世界の趨勢に遅れるなといわんばかりに、とりわけアメリカから急速に技術や設備がとりいれられていった。しかし、原発がそもそも核兵器技術の転用にほかならなかったことは、政治家は別として一般にはあまり認識されていなかった(むしろあまり知らされないようにされていた)という。戦前の大国幻想をいだきつづける岸信介などの保守政治家が、原発を単なるエネルギー技術と見ず、そこに核の潜在的可能性をとらえていたというくだりは、その後、使用済み核燃料の再処理問題をめぐって日米間で実際に微妙な対立が表面化したこととあわせて、きわめて興味深い。プルトニウムを生みだす原発を、核兵器と無縁の単なる「平和」手段と思いこむのは錯誤もはなはだしいことを本書は教えてくれる。

核兵器開発を戦後、民生用に転用した原発技術は、最初から未熟で欠陥を有していたと著者は書いている。たとえば、危険な核分裂生成物が含まれている使用済み燃料棒は、隔離して冷却をつづけねばならない。その処理には莫大なコストとエネルギーを必要とするばかりか、最終的に「無害化不可能な」高レベルの放射性廃棄物が残され、それらはほぼ永久に保存されなければならない。そんな未熟な技術の上に、商業用として何百もの原子炉が築かれていることが、真の恐怖だと著者は考えている。大量の核兵器も含めて考えると、世界は核なき世界に向かうどころか、ますます核まみれになっているのだ。

また原発の定期検診やメインテナンスの過程でも、低レベルの放射性廃棄物(例えば取り替え部品や防護服なども)が常に発生し、原子炉自体もいずれ廃炉の段階で巨大な放射性廃棄物となる。これらは地中深く埋めるほかないが、最終的な処理・保管方法はまだ確立されていない。「原発はクリーン」というイメージ宣伝に反して、ウラン採掘から使用済み燃料の最終処理にいたるまで、原発から環境への放射性物質への放出は防ぐことができない。ウラン鉱の残滓はしばしば野ざらしにされ、原発の稼働現場では作業員は絶えず被曝の危険にさらされる。放射能を含む気体が大気中に放出され、放射能を含む温排水が海に流されることもままある。そんな隠された現実を著者は冷静に指摘する。

「原子力発電プラントは、その構造の巨大さと複雑さのゆえに、事前に予期しえない事故を起こす危険性をつねにはらんでいる」とも書かれている。そして、いったん大事故が発生すると、その影響は周辺に限らず、全国、さらに諸外国におよび、後の世代を何代にもわたって巻きこんでいく。フクシマでは現実にそうしたことが起こった。当面のビジネスを優先するあまりに、本来、未熟で無責任な原発の技術を、その自覚がないまま、安全管理を怠って安直に運営したところに、今回の悲劇の芽がひそんでいたといえるだろう。

福島の原発事故は、科学史家でもある著者に「自然にたいする畏怖の念を忘れ去った」近代科学への反省をも促している。はたして近代科学は人びとに幸福をもたらしたと言いきれるのだろうか。世界で覇権を争う国家が、経済成長を旗印に、反対者を排除するようにして(著者はそれを「原発ファシズム」と名づけているが)強引に取り入れた科学技術が、実は社会を破局に導く可能性を秘めていたことを、今回の事故はまざまざと示した。フクシマからの問いは、原発にとどまらず、近代科学文明の本質にまでおよぶことを予感させている。

著者はいうまでもなく、これからの方向は「脱原発・脱原爆」だと考えている。ウランもいつか枯渇する。そのとき地球全体が放射性物質で汚染されていてもよいのかと訴える。こうした見解にたいしては、さまざまな反論がなしうるかもしれない。しかし、少なくとも原発の安全神話が崩れた以上、もっと安全な原発をさらにと求める主張はどこか疑わしく、われわれはいちど立ち止まって、次にどうするかを一人ひとり考えなくてはならない。
『FBI美術捜査官』
著者: ロバート・K.ウィットマン、ジョン・シフマン 訳者: 土屋晃、匝瑳玲子
出版社: 柏書房
参考税込価格: 2,625円
ISBN-10: 4760139966
ISBN-13: 978-4760139965
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米FBI(連邦捜査局)において、美術犯罪専門の潜入捜査官を務めていた著者による回想録。ハリウッド映画では美術品泥棒の姿が華麗なイメージで描かれて、美術犯罪の捜査は花形の部署なのかと思ったら、巨大組織・FBIでの立場は傍流。美術犯罪に対する捜査熱は国によって差が大きく、イタリア、フランスなどヨーロッパでは重視されているが、FBIに初めて美術犯罪チームが設立されたのは2004年になってのことで、当時、フルタイムの潜入捜査官は著者ひとりであり、著者の退局後はいないそうだ。
共著者のシフマンは、フィラデルフィア・インクワイアラー紙の記者。その叙述はとても手際が良く、2007年、米国史上最大級の美術品窃盗事件を捜査中のダイナミックな場面から本書を書き起こし、美術犯罪捜査の世界に読者を引き込む。

本書の語り部であるウィットマンは1955年生まれの日米ハーフだ。父親はボルティモア出身の孤児で、17歳で海軍に入り、1952年にアメリカ空軍立川基地に赴任。基地で働いていた日本人女性と53年に結婚。著者兄弟は東京で生まれ、57年にボルティモアに移った。著者はテレビドラマ『F・B・Iアメリカ連邦警察』が大好きで少年時代からFBI捜査官にあこがれ、88年、30歳過ぎの転職でFBIに入局。新人時代にロダンの彫刻を取り戻して以降、芸術と捜査にかんする勉強を重ね、独自の潜入捜査メソッドを練り上げていく。

現実の美術品泥棒は、華麗なる紳士とはほど遠い。著者は第一部でこう語っている。〈美術品の盗難とは芸術にたいする愛だとか、才気走った犯罪などというものとは無関係だ〉〈(美術品泥棒に)ひとつ共通する点があるとすれば、それはとてつもなく強欲であるということ〉。金が目的だから、盗み自体よりも、名品を闇でいかに売りさばくかが美術犯罪の焦点となる。そのため著者は、闇に分け入る潜入捜査を行った。南米の王墓から盗掘された金細工の装飾品、アフリカ系アメリカ人の歴史で神聖視されている南北戦争時代の連隊旗などを回収。90年3月、ボストンのガードナー美術館からレンブラント、フェルメールを含む傑作11点がごっそり盗まれた史上最大級の美術品盗難事件を執念で追いかける。およそ20年のFBIでの日々を振り返り、可能な限り真実に迫る回想録として書き上げたのが本書である。

本書のおもしろさの第1は、美術犯罪の潜入捜査という、「日常」とかけ離れた世界を読めること。第2は、著者の人間味。〈ボルティモアの孤児と日本の事務員の間に生まれた〉著者が、FBIという巨大官僚組織の壁に絶えずぶち当たり、なんとか最善の道を模索する姿は、多くの働く人にとって身近な部分ではないだろうか。〈なにしろ人の入れ代わりが激しい〉といった言葉は、すぐ近くのビルで誰かが叫んでいそうだ。若い指揮官を3年ごとに配置換えするFBIの慣例のために、いちばん頼りにしていた同僚がホノルル支局に転属になり、補充はなし。軋轢のなかで著者が命懸けの潜入捜査を行い、美術犯罪チームの創設に尽力した理由は、自身の仕事に対する信念と情熱があるから。美術品の強奪や破壊は、はるか古代から行われてきた。戦火にまみれ、無法地帯と化した場所は長く被害にさらされた。さらに、20世紀半ば以降、従来“金で買えない(プライスレス)”とされてきた名品の金銭的な価値が高騰し、それとともに美術犯罪も増加した。〈私たちが追っているのはたとえばコカイン、ヘロイン、ロンダリングした現金のように、犯罪上ありふれた対象ではない。金銭では価値の測れない??人類の歴史をそこに捉えた、かけがえのない芸術である〉。美術遺産を健全に保ち未来の世代に伝えることは、人類のアイデンティティにかかわると著者は信じている。金で買えない、他人から安易に価値や意味をつけられるものではないという点は、著者の仕事に対するプライドも同じだと思う。
『聞いてください』
脱原発への道しるべ
著者: 坂田静子
出版社: オフィスエム
参考税込価格: 1,365円
ISBN-10: 4904570383
ISBN-13: 978-4904570388
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〈じっとしていられない気持から、手作りの小さな刷り物をお手許にお届けします。不馴れで字も揃わず、お読みになりにくいでしょうが、どうぞ大目に見てくださいますように。〉

『聞いて下さい』第1号が発行されたのは1977年5月29日。表題の下には〔原子力発電について〕と記されている。長野県須坂市に住むひとりの女性が、ガリ版を切り、わら半紙1枚のチラシを公民館の手回し輪転機で100枚刷った。きっかけはその年の2月末に届いた、英仏海峡の島に暮らす娘からの手紙だった。

〈対岸のラ・アーグ(仏)に原子力発電(原発)の再処理工場があって、そこから洩れる放射能で牛乳や海産物が汚染されて被害が出始めている上に、近く大拡張の予定との事で、しかもそこでは日本の原発の廃棄物の大部分が再処理される予定との事です。(中略)日本ではこういう事を知っているのでしょうか。反対している人もいると聞きましたが……。資料があったら送って下さい。〉

それまでは、社会問題などにはほとんど無関心で、家事や家業の薬局のことしか考えない主婦だった。しかし、娘のこと、孫のこと、そしてまだ生まれていない未来の子どもたちのことを考えると、いてもたってもいられなくなった。キリスト者でもあった彼女は、〈恐れるな、語り続けよ、黙っているな、あなたにはわたしがついている〉(使徒行伝18章9節)という言葉にくりかえし立ち返りながら、原発のない長野の地で小さな運動をつづけた。『聞いて下さい』は1996年10月の時点で68号を数え(最終的に何号発行されたのかは詳らかにしない)、著者は1998年10月19日に亡くなるまで原発のことを気にかけていたという(享年74)。

1987年6月23日発行号に、幼い子どもを持った西ドイツの母親の詩が引かれている。〈五月の雨は子どもを大きくするからと/母は私を外で遊ばせた/五月の雨は子どもを病気にするからと/わたしは娘を外に出さない/果物と野菜は健康だからと/母はわたしにサラダとイチゴをあたえた/果物と野菜は毒だからと/わたしは娘に冷凍食品と缶詰をあたえる/ミルクとパンはほっぺたを赤くすると母は言った/粉ミルクとセシウム・パンもかしら?〉(ギバ・シャーフ「一九八六年五月・放射能の日常」)

本書のなかには、このほかにも著者以外のさまざまな人の声が紹介されている。読んでいるうちに、それが誰の言葉なのか、ふっとわからなくなる瞬間があった。ひとりの人間が動き始めるとき。書き始めるとき。声をふりしぼるとき。それは誰かを代弁しようとするときではないだろうか。彼女は代弁者であった。弱きもの、幼きもの、これから生まれてくるものたちの。そうして生きた軌跡が本書に刻み込まれている。

いま、多くの個人が動き始める姿をみて、その胸のなかに、自分以外の誰かの姿があるように思える。「聞いてください」という祈りにも似た言葉は、2011年の現実のなかに、より大きく響いている。

*『聞いて下さい』のオリジナル版は、埼玉大学共生社会教育研究センターに所蔵されている(宇井純公害問題資料コレクション)。
『書中日記』
著者: 坪内祐三
出版社: 本の雑誌社
参考税込価格: 1,680円
ISBN-10: 4860112172
ISBN-13: 978-4860112172
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締め切りのきつい仕事を抱えているときには、この人の本には手を出さないようにしている。読みだすと止まらないので困るからだ。今回は流水書房青山店で、今は無き小沢書店のフェアをやっているというので、それを見に行ったら、一角にこの本があって、うっかり手に取ってしまった。日記シリーズは、『三茶日記』『本日記』に続いてこれが3冊目。5年に一冊くらい出る。

パラリと開くと「松本道子さんの本を続けて見つけた」という見出しが目に入る。松本道子さんは講談社の名編集者で、三島由紀夫が、私が文学の話を楽しむのはこの人とだけだ、と語ったという。文学というものが一番よくわかっている人だ、と言ったともいう。その松本道子の回想録、『風の道』『きのうの空』のことだなと思って読み始めると、もういけない。そういえば『きのうの空』に入っている「形見」という短篇は、婚約しながら結婚に至らなかった、戦後の男女の一つの付き合いの形を描いて絶品だった、などと思い始めると、すでに坪内ワールドに取り込まれているのである。

街を飛び回りながら、本を読んで、買って、また読んで、買って、ひたすらそれを繰り返す。もちろん寸評があり、蘊蓄があり、近況についてや本以外のことも少し混じる。それが絶妙のリズムで配合されるので、まるで自分も、街を一緒に飛び回っている気分になる。そのリズムがあまりに軽快で気持ちよいので、ランニング・ハイならぬリーディング・ハイの状態になる。

取り上げられている本は……多種多様すぎて要約できない。例を挙げると……一部の例で全体を代表させることはできない。ともかく登場する本の9割以上が自分の知らない本で、しかもそれについての文章がとめどなく面白いというのは、尋常のことではない。

『三茶日記』『本日記』と、この本を続けて読むと、あまりに多くの本の話題で頭がくらくらして、何が書いてあったのか、みな忘れてしまう。それでまた最初から読み返すことになる。それを何度も繰り返すことになる。実は「本」だけでなく、この著者には『酒日誌』『酒中日記』という酒をめぐる日記もあり、こちらも同じように面白い。そして同じように繰り返し読めるのだが、他人の酒中日記を繰り返し読むのは、自分が飲むべき酒を人に吞んでもらっているようで、なんとなく居心地が悪い。というより、書名がたくさん出てくる本の方が、「面白くてためになる」ような気がするのだ(なんて貧乏根性!)。

この著者の代表作と言えば『慶応三年生まれ七人の旋毛(つむじ)曲り』や『靖国』を挙げる人が多いだろう。確かにそれらは真に独創的な傑作であり、また問題作である(ちなみに『七人の旋毛曲り』は最近文庫が出て、「幻の見せ場」を加えた「あとがき」が読ませる)。あるいは初期の『ストリートワイズ』や『古くさいぞ私は』を愛する人も多いだろう。しかしこの日記シリーズは、批評することの難しいこの著者の独創性を、非常に分かりやすく、何よりもはっきりと見せていると思う。
『ヒトはいかにしてことばを獲得したか』
著者: 正高信男・辻幸夫
出版社: 大修館書店
参考税込価格: 1,890円
ISBN-10: 4469213330
ISBN-13: 978-4469213331
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「見えない」「言えない」「聞こえない」という3重の障害を克服し、ハーヴァード=ラドクリフ大学を優秀な成績で卒業したヘレン・ケラーの物語は、何度聞いても感動的である。

1887年春、ケラー家に数週間前からやってきていた師サリヴァンはその日、6歳のヘレンをスイカズラの匂う井戸端に連れ出す。ほとばしる清冽な水にひたされるヘレンの片手。サリヴァンはヘレンのもう片方の掌にゆっくりと、何度も、「W―A―T―E―R」という文字を書き続ける。その時、ヘレンの心に何か忘れていたものを思い出すかのような戦慄が走り、一瞬のうちに彼女は、その冷たくほとばしる物体に「WATER」という名前があることを悟るのだ。彼女の前に突如として意味に満ちた世界が開け、その日のうちに彼女の凄まじいまでの言葉の習得が始まる。

本書によれば、一人一人の子どもの言語習得にも、同様の過程が含まれるという。ヘレンと違って子どもはまず、耳から音=母親の音声を聞き取り、覚えていく。但し、生れたばかりの子どもにとって世の中は音の洪水であり、どこに注意を向けてよいかが分からない。だからこの過程では、サリヴァンがヘレンに行ったような「ゆっくり」「繰り返す」ことが大切なのだという。つまり、母親が自然に行っている子どもへの語りかけ=「マザリーズ」――抑揚を誇張したり、テンポをゆっくりしたり、同じ言葉を繰り返したり、声の調子を高くしたりする――育児語が、子どもの言語習得を促すのである。

こうして生後8―9カ月以降の子どもでは、少なくとも60くらいの音がメモリーとして心の中に保持され、子ども自身もそれを口に出して再生する。初めのうちはそれを単なる「音」として捉えている子どもだが、いつしかその音に「意味」があることに気づく日がやって来る。そこから急速に言語世界が始まり、拡大していくというのである。

では個人を超え、種としてのヒトは、サル類との間を分かつ「言語」を、いつ、どのようにして手に入れたのか? 言語とはそもそも何であったのか?

言語の起源研究は、ギリシア・ローマ時代から、哲学者など学者たちの関心の的であった。しかし、いずれの研究も思弁的なもので、2000年以上経た最近に至るまで、何1つ確実なことは分からなかった。1866年のパリの言語学会で、「言語の起源について論ずるものは受けつけない」という禁令が出たのは有名な話である。しかし、20世紀後半の現代思想の火付け役となった言語学革命を経て、20世紀末から再び起源論に火がつく。最近では数年ごとに新発見があり、神経科学、認知科学などを含め、進展が著しいという。

それを踏まえた本書によれば、ヒトがゴリラ、チンパンジーと系統分岐したのは700万年以上も前だが、言語の起源はわずか10万年前に過ぎないとされる。しかも「言語」とは、思弁哲学などの主張する、「思考や表象を表現するための手段」などではなく、もともとリスザルなどが、互いに見えない森の中で、ヴォーカル・コンタクトとして「ホー」と鳴くと「ホー」と応えるのと同水準の、コミュニケーション・ツールとしてあった意志疎通用の音声であった。これがやがて自由度を広げ、抽象的な表象、心像を操作できる機能として発展していったと考えられるというのである。

本書では、生物学者と認知科学者との自由な対話によって、一人の人間の言語習得から、種としてのヒトの言語習得にまで検証の範囲が及び、さまざまなエピソードの中で、ヒトと言語の関わりについての最新の知見を、読者にわかりやすく紹介する書となっている。

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