2010年8月アーカイブ

『戦後論』
日本人に戦争をした「当事者意識」はあるのか
著者: 伊東祐吏
出版社: 平凡社
参考税込価格: 2,730円
ISBN-10: 4582702503
ISBN-13: 978-4582702507
4582702503.jpg
加藤典洋『敗戦後論』(講談社)が刊行されたのが1997年である。すでに十数年の月日がたっている。論壇で大きな話題になり、いくつかの論争がおきたことはいまだに記憶にあたらしい。しかし論争はかみ合わず、どちらかといえば復古的で、国家主義的主張であり、「新しい歴史教科書をつくる会」などと並んで、「ネオナショナリズム」の傾向にあるといった批判が横行した。そして、現在までもその批判は断続的に続いている。

なぜ、『敗戦後論』はそれほど評判が悪かったのであろうか。著者は、膨大に発言された批判を詳細に検討するところから、私たちにとっての敗戦・戦後の問題と意味を取り出そうとする。かみ合わないところに、むしろ「戦後論」のポイントがあるのではないかとすら考える。

まず、批判を次の5つに大別する。
(1)問題のあつかい方が粗雑(アジアと日本。保守と革新、といった二分法。あるいは戦死した朝鮮人、台湾人、日本軍に虐殺された沖縄の人などの位置づけのあいまいさ)(2)被害者を無視した、日本人に都合のよい自己弁明(高橋哲哉に代表される、「なぜ日本の三百万の死者」への哀悼を、「二千万のアジアの死者」への「哀悼」と「謝罪」の「先に置く」ことを求めるか)。(3)なぜ「国民」「われわれ」という主体のたちあげを主張するか(4)国家を背負うな(5)加藤の「文学」は弱い。

多くの批判の内実をみてゆくと誤解や誤読も少なくない。あるいは「ゆがみ」「ねじれ」といった表現の問題。ねじれていないもの、汚れていないものを想定しており、「ねじれ」の解消を目指しているなどと誤解されることが多い背景だともいう。伊東は批判について次ぎのように言う。

要するに、「戦争日本は大東亜戦争をうけとめないかぎり、謝罪は不可能である」という加藤の主張は、その前提として「戦後日本が戦争や大日本帝国とのつながりがあること」や「国民国家という枠組みのなかで生きていること」を認める立場にあるために、そのことをすぐさま大東亜戦争や国民国家の肯定として受けとってしまった人々が、加藤に対して被害者無視だとか、国家主義的だとの批判を寄せたのである。しかしそれは批判でなく、拒否反応に近い。

一方、加藤の問題点も指摘する。戦前と戦後が「つながらなさでつながる」といった方法では、当事者として戦前を受けとめられないという。詳しく紹介するスペースはないが、鋭い内在的批判として読み応えもあった。
最後に、戦後日本に戦争をした『当事者意識』」がなぜ欠如してしまったか、伊丹万作、大岡昇平、吉田満、岩崎昶などの戦中、戦後の仕事との比較のなかに読み込んでゆく。

戦後65年という(考えてみれば奇妙なことだ。あまりにも長すぎる!)。しかし、いまの時点まで、伊東のいう「当事者意識」の不在は続いているような気がする。最後の部分は、もう少したっぷり論じてもらいたい気がした。おそらく伊東の次の仕事になるだろう。刺激的な一冊だった。

そういえば、加藤典洋の新著『さようなら、ゴジラたち』(岩波書店)にも、この問題への論及があり、批判は海外にも及んでいるという(表題になった「ゴジラ論」は一読の価値あり)。サブタイトルは「戦後から遠く離れて」。しかし、「戦後」はまだまだ論じ足りないのではないか。
『小林秀雄』
越知保夫全作品
著者: 越知保夫
出版社: 慶應義塾大学出版会
参考税込価格: 2,520円
ISBN-10: 4766417380
ISBN-13: 978-4766417388
4766417380.jpg越知保夫は1961年、49歳で死んだ。2年後の63年、遺稿集『好色と花』が筑摩書房から刊行された。生涯の著作はこの一冊のみ。この本は1970年に、今はなき名シリーズ「筑摩叢書」の一冊として再刊され、85年に重版した。そこにこのたび評論、劇作、詩、書簡を増補し、年譜や資料、小伝を加えて、一巻全集が編まれた。本書は半世紀を生きつづけ、さらに生まれ変わって新たな命を得たのである。

本書のテーマは美と宗教、愛と聖性。その素材は小林秀雄、ドストエフスキー、ルオー、セザンヌ、ガブリエル・マルセル、宇野千代、チエホフ、クローデルなど。出色なのは能や古今集を題材に、すき・わびを論じた日本古典論。こういう事柄を手触りのある言葉で書き綴り、それがまた一つの文学作品となり、それを作ることが生きる証たりうる時代が、かつてはあったのだ。本書を読んで、久しぶりにそんなことを思った。

私は、書店で偶然この本を見るまで、越知保夫の名を知らなかった。編者の若松英輔による「小伝」には、「遺稿集『好色と花』が筑摩書房から刊行されると、中村光夫、平野謙、遠藤周作、島尾敏雄といった文学者だけでなく、井上洋治といった宗教者までもが強く反応した」とある。「遠藤周作は『砂漠の中に金鉱を掘り当てた』と」言ったのである。

収められた作品の中では、第1部の小林秀雄論と、第5部の「好色と花―エロスと様式」を含む古典論が、圧巻である。文学から聖性を引き出し、そこから愛あるいは美へと論を進めるのは、日本の文学批評には稀有な道筋である。この人は、カトリックの洗礼を幼いときに受けたという、己の運命を忠実に生きたのだ。しかしもちろん、ドグマとしての宗教論などでは全くない。

もう一つ特筆すべきは、編者若松英輔の手になる小伝である。井筒俊彦、須賀敦子とのかかわりを指摘することによって、越知保夫は文学者として甦り、現代に新たな位置を占めることとなった。その作業は緒についたばかりであり、そこからまた新たな批評作品が生まれることが予感される。書物と人の一生が絡み合いながら、稀有な精神のリレーがなされたのだ。
『山本五十六の乾坤一擲』
著者: 鳥居民
出版社: 文藝春秋
参考税込価格: 1,700円
ISBN-10: 4163728600
ISBN-13: 978-4163728605
4163728600.jpg歴史叙述の方法には様々あるが、多少乱暴に大別するなら、ジャーナリスト的、研究者的、とでもいうことになろう。前者は比較的近い過去に対して用いられ、史資料にあたるしか事実に迫る方法がない時代を描くのは後者の仕事、というのが一般的なイメージではないか。

その意味で、今年、終結から六十五年が経過した太平洋戦争は、なかなか取り扱いの難しい時期にさしかかっていると言わざるを得ない。語り部としての当事者(単なる体験者ではなく、国策に責任を負うレベル)はほぼ死に絶え、ジャーナリスティックな手法が通用しにくくなっている反面、まだ公開されていない資料が相当数に上ると考えられるからだ。

では、この『山本五十六の乾坤一擲』は、どちらに入るのか。その問いに答えるのは難しい。なぜなら本書は、誰にも書かれなかった、これまでの歴史においては空白の中にある「事実」を推察し、知られている事実と付き合わせる手法を採るからである。歴史叙述の方法としては問題がある、と思う人もいるだろう。

本書で語られるのは、戦争指導にかかわった政治家や軍人、皇族など、何人かのプレイヤーたちの「評価」に対する異議申し立てである。一般に開戦派・対米主戦論者として知られる海軍軍令部総長・永野修身がそのような意見の持ち主ではなかったと言うこと。永野と連携はなかったものの、海軍中佐であった昭和天皇の弟宮・高松宮が永野と同様の主張を天皇に対して述べたこと。

永野に対するそうした誤解の源となったのは、天皇に米ソと二正面戦争の危険を喚起することで対ソ戦を目論む陸軍の思惑を封じるため、あえて強く日米開戦を説く海軍サイドの考えであったこと。

ゆえに一転、開戦の九日前になると、高松宮は日米開戦を否定する言上をおこなっていること。一連の、高松宮の動きの背後には山本五十六がおり、その連絡には平田昇、保科善四郎があたったこと。そして、永野らの主張の含意を知りつつ黙殺し、戦後も沈黙を続けた内大臣・木戸幸一の不実…。

本書は大仰なタイトルほど山本五十六の行動について論証できているわけではない。資料的な裏付けのしようがないので、周辺から状況を押さえていった結果、このような記述になってしまったものと思われる。天皇に直接日米避戦を訴える「乾坤一擲」のバクチも、タイミングとして遅きに失し、昭和天皇のキャラクターとも相まって実効があり得たとは到底考えられない。それでもなお、キモとなる第七章「その日、十一月三十日」における各人の動きは胸に迫る。一九八五年から刊行が続く大著『昭和二十年』(草思社、既刊十二巻)の作者たる歴史家の、長年の思索と筆がなさしめるのであろう。

諸々、本書は読み方にかなりの技術を要する。しかし戦後六十五年の間に積み重ねられた多くの研究から、私たちは本書が指摘する以外にも、日米開戦に反対する勢力が、様々な策動を試みていたことを知っている。それらの一つとして山本五十六の「乾坤一擲」を理解し、にもかかわらず大日本帝国は戦争の奈落に墜ちていったのだという「事実」を振り返るとき、関係したプレーヤーたちが、なぜ「語らなかったのか」「書き残さなかったのか」という疑問にも自分なりの答えを導くことができるのだろう。

もはや戦争の記憶が風化していくことは留めがたい。この時期になると書店の店頭に並ぶ戦記や、戦争を考える書籍の山に辟易したり、胡散臭い思いを抱く人も増えている。それでも、年にたった一度、自分たちがかつて陥った隘路に目を向け、そのとき何が行われ、行われなかったのか眺めることは、防衛問題や安全保障問題で課題の増えつつある昨今、欠くべからざる作業だと思う。

猪瀬直樹さんの『昭和16年夏の敗戦』(中公文庫)、戸部良一さんの『ピース・フィーラー』(論創社)、入江昭さんの『日米戦争』(中央公論社)、升味準之輔さんの『昭和天皇とその時代』(山川出版社)、小林道彦さんの『政党内閣の崩壊と満州事変』(ミネルヴァ書房)、井上寿一さんの『危機の中の協調外交』(山川出版社)なども、併せて読んで欲しい。

『世界史の構造』
著者: 柄谷行人
出版社: 岩波書店
参考税込価格: 3,675円
ISBN-10: 4000236938
ISBN-13: 978-4000236935
4000236938.jpg1989年の東欧革命からソ連の解体、それに続くグローバリゼーションや新自由主義も破綻をきたし、世界の趨勢が見えにくくなっている現在、それを歴史的構造的にとらえなおし、未来に向けての構想を指し示す骨太な一冊である。しかも、世界同時革命などという過激な提言。これは読まずにいられない。

1990年代、著者は各国における資本と国家への新たな抵抗運動を構想していたという。それは、デリダの「新しいインターナショナル」の提唱や、ネグリ&ハートによる「マルチチュード」の世界同時的な反乱にも呼応するものだった。しかしそのようなオプティミズムは、01年に起こった9・11以後の事態によって破壊される。この事件は宗教的対立と見えるが、実際は「南北」の深刻な亀裂を露出させたもので、そこには諸国間の対立だけではなく、資本と国家への抵抗運動そのものの亀裂があったと著者は見る。資本と国家に対する抵抗運動は、一定のレベルを越えると必ず分断されてしまう。そこで、前著『トランスクリティーク』(2001年)での考察を、根本的に練り直すために、マルクスが提起した交換様式という観点から、社会構成体の歴史を包括的にとらえなおそうと考える。

著者は『トランスクリティーク』で、資本主義のグローバル化により、国民国家が消滅するだろうという見通しに対し、ステートやネーションがそれによって消滅することはないと述べた。先進資本主義国では、資本=ネーション=ステート(国家)という三位一体のシステムがある。まず資本主義的市場経済が存在し、これを放置すると格差の拡大と階級対立を引き起こす。それに対して、ネーションは共同性と平等性を指向する観点から、資本制経済の諸矛盾の解決を要求する。国家は、課税と再分配や諸規制によって、その課題を果たす。この三位一体システムは強力で、そのどれかを否定しようとしても、この輪の中に回収されてしまう。そこで、基礎的な交換様式を考察し、それらの接合としての社会構成体と世界システムが、どのようにして資本=ネーション=国家という三位一体を構成するに至ったかを明らかにすることによって、それを揚棄する新たな世界システムが実現されると著者は考えた。

まず基礎的な交換様式が歴史的にどう連関するかを見るために、それを4段階に分ける。(1)国家以前のミニ世界システム (2)資本制以前の世界=帝国 (3)資本制以前の世界=経済 (4)現在と未来。 ここでは、世界史に起こった3つの「移行」を構造的に明らかにし、それによって4つ目の移行、すなわち世界共和国への移行の手掛かりを見出そうとする。

最初の「ミニ世界システム」では、遊動的バンド社会から氏族社会への移行の前提に定住革命を位置づける。氷河期後の温暖化により温帯地域の森林化が進み大型獣が消え、採集に関しても季節的変動が大きくなる。そのとき人々が向かったのは漁業であった。漁業用の道具は簡単に持ち運びができないから、人々は河口付近に居を構え、定住によって栽培や飼育が可能になったのだ。すると人口が増大し、人々の間に葛藤や対立が生まれる。定住することで死者と近くで共存することを余儀なくされ、死者に対する観念が変わり、先祖神として奉るようになる。定住は備蓄を可能にし、不平等と戦争をもたらすが、それを回避するために氏族社会の贈与とお返しという互酬が成立する。メソポタミヤ、エジプト、インダス、中国の古代国家など、原都市=国家はいずれも大河の河口部にあった。漁業のために人々が集まり、栽培や飼育が始まり、交通の結節点だったから交易も始まる。そこに本格的な農業が起こり、国家が誕生する。このとき重要な役割を果たしたのが宗教であり、氏族・部族の神々を越えた神が出現する。

官僚制の誕生、国家と貨幣、貨幣の資本への転化、アジア的専制国家と帝国、普遍宗教、産業資本、ネーションの形成、社会主義と国家主義、福祉国家主義などなど、資本制社会の成立以降も社会構成体の歴史を生産様式ではなく交換様式を通してたどりながら、終章で世界同時革命の可能性に迫っていく。カント、ヘーゲル、マルクスの古典哲学を検証しながら、旧来の世界システムを越える世界共和国を示唆し、それは「ミニ世界システム」を高次元で回復することだという。つまりそれは、互酬的原理の高次元での回復を意味する。そして第二次世界大戦という人類の多大な犠牲の上に成立した国連が、たとえ不十分だとしてもこれを活用することなしに未来はないという。国連を新たな世界システムにするためは、各国における国家と資本への対抗運動が不可欠である。各国の変化のみが国連を変え、同時にまた国連の改革こそが各国の対抗運動の連合を可能にするとも述べるのだ。

歴史的な政権交代から1年が過ぎ、いまだに混迷を続ける日本の現状を客観的捉えて未来を眺望するためにも、ここでの俯瞰的視点は有効であり示唆的でもある。
『ヒップ アメリカにおけるかっこよさの系譜学』
著者: ジョン・リーランド 訳者: 篠儀直子、松井領明
出版社: ブルース・インターアクションズ
参考税込価格: 2,940円
ISBN-10: 4860203526
ISBN-13: 978-4860203528
4860203526.jpgメルヴィル、ヘミングウェイ、チャンドラー…。文中にある名前に引かれて読み始めたが、大著で圧倒された。原題は「Hip:The History」。「ヒップ」と称される精神性を巡るアメリカの文化通史、つまり「歴史書」なのである。

著者は「ニューヨーク・タイムズ」の記者で、20年以上にわたり人種とポップ・カルチャーについての記事を執筆。〈アフリカ人がなければ、ヒップもなかった〉と考える著者は、20人のアフリカ人が英領北アメリカのヴァージニア州ジェイムズタウンで売買された、「1619年」を起点にヒップの歴史を書き始める。アフリカ人とヨーロッパ人は新天地で出会い、それぞれのルーツを背景に、自分たちをアメリカ人につくり直していった。黒人と白人の習慣はやりとりされ、特に19世紀以降、音楽、映画、文学、アート、ファッション、広告、ビジネスの各ジャンルで、世界的な潮流がアメリカから生まれた。

ブルース、ジャズ、ロスト・ジェネレーション、ビート、デジタル・ヒップ。滔々たる大河の流れのような通史を、中立的な筆致で綴る。もの凄い数の”ヒップスター”が登場するが、〈なにしろ本書は穴だらけだから〉、マイケル・ジャクソンには触れていず、60年代の大衆的カウンターカルチャーのモデルになった40、50年代の「ヒップ黄金時代」に紙幅を多く割いている。「歴史書」だから、人物の紹介は端的だ。ただし中身は、模範的、教科書的なものとはほど遠い。〈チャーリー・パットンは、説教師である父親を無視し、酒、悪魔の音楽、取り巻きの女たちからなる放埒な人生を送った〉〈レニー・ブルースは四一歳のとき、麻薬のやりすぎで逝ってしまった〉〈キャサディは、メキシコのサンミゲル・デ・アジェンデの線路脇に寝そべって凍死した。あと数日で四二歳という年齢だった。酒にむしばまれたケルアックも翌年生涯を終えた。四七歳だった〉などである。

そもそも、ヒップとは何か? ルーツも信教もごちゃ混ぜの国アメリカにおいて、たとえば黒人と白人が、ユダヤ教徒とキリスト教徒が、せめぎあう中で生まれてきた自己表現法、他者の個性を認めながら、自己をつくり直してアイデンティティを保つ、個人主義の一形態と言える。アメリカ人の根っこには、既存の文化や制度に対する「不服従」の姿勢が根ざしており、この精神性は「アメリカ」を推し進める動力源のひとつになった。1619年以降、白人と黒人、ふたつの集団の長い相互作用の結果、2009年に初のアフリカ系大統領が誕生したわけだ。「ヒップ」についての物語は、アメリカの歴史でもあった。

それにしても、本書に記される人々のようなエネルギッシュな生き方は、私にはとてもできないと思う。「ヒップ黄金時代」には生まれていないし、どの人も”遠い存在”すぎて憧れることもないが、「iPod」には毎日お世話になっていて、私も「ヒップ」の影響を何げなく受けている。原著は2004年刊。白人ラッパー、エミネムが直近のヒップスターとして記され、その後も流行は移り変わり、「ヒップ」は続く。
『カントリー・オブ・マイ・スカル』
南アフリカ真実和解委員会〈虹の国〉の苦悩
著者: アンキー・クロッホ
訳者: 山下渉登
出版社: 現代企画室
参考税込価格: 2,940円
ISBN-10: 4773810068
ISBN-13: 978-4773810066
4773810068.jpg「問いかけでしか話すことができません。あなた方はご存知ですか、あなた方委員諸氏は、華氏六千度から八千度の温度の感じを? ご存知ですか、歯から詰め物が吹っ飛ぶほどの強烈な一撃を喰らった感じを? ご存知ですか、生存者を探して、しかも死と損傷だけを見つけ出す感じを……。ご存知ですか、三歳の子どもを探して、二度と、委員長殿、その子を二度と見つけられず、しかも、一生死ぬまでその子の居場所をあれこれ考え続ける感じを?」

ほとんど読み進めるのが困難なほどの苦痛を感じながら、それでもそこにある言葉から逃れることができない。南アフリカでは、だれもが語るべき事柄を持っていた――「家に火炎ビンを投げ込まれた下院議員たちから、指をコーヒー・ミルに突っ込まれた友人の子どもたちや、右翼が刑務所の中で意気消沈している間にすでに通りを闊歩している罪人たちに至るまで」。

アパルトヘイトに終止符を打った1994年の全人種参加総選挙ののち、1960年から1993年までに起きた重大な人権侵害の全体像を明らかにし、加害者と被害者の和解を図るために「真実和解委員会」は設立された。アンキー・クロッホは南アフリカ放送協会の記者として、アパルトヘイトを遂行してきたアフリカーナー(南アフリカの白人)のひとりとして、最初の公聴会の開始(1996年4月)から委員会が活動を終える2000年まで、そこでおこなわれた一切を見つめ続ける。ひと晩1~2時間の睡眠で、泣きながら、心身をすり減らしながら。

「毎週毎週、声また声、証言そして証言。それは死者や死者の名前というよりも、それらのまわりに編み上げられた果てしのない悲しみの網だ。それが次から次へと続いていく。地平線がどんどん背後に後退していく広漠とした、不毛で、絶望的な風景のように」
息子を殺された母親、拷問を受けた活動家、レイプされた女性……。クロッホは「人々が自分の言葉に支払った代償を知って」茫然とする。そしてそのことを書けば、私的に流用し、人びとを裏切ることになると思う。しかし、「書かなければ私がだめになる」。彼女はこの国(カントリー・オブ・マイ・スカル=私の・頭蓋骨の・国)で起きたことのすべてを書こうとする、「みんなのために、すべての声、すべての犠牲者のために」。

彼女はジャーナリストであると同時に、アフリカーンス語で詩を書く詩人でもあるという。彼女は、人びとの身体の奥底にある苦しみを必死に聴き取り、もがきながら表現した。そして、これこそがまさしく詩人のなすべき仕事なのである。
『禅問答入門』
著者: 石井清純
出版社: 角川学芸出版(角川選書463)
参考税込価格: 1,575円
ISBN-10: 4047034630
ISBN-13: 978-4047034631
4047034630.jpg
禅問答というと、「超難解で、わけのわからないもの」というイメージが強い。にもかかわらず、なお私たちがそれに惹かれるのは、理屈を超越したやりとりの中に、生と世界に対する真摯な問いかけを聞き取るからだ。

夏目漱石『夢十夜』の「第2夜」には、悟りを得ようとする侍の、狂気をはらんだフラストレーションが描かれている。この挿話に登場する禅問答こそ、本書『禅問答入門』でもしばしば引用される「趙州狗子(じょうしゅうくし)」の公案である。

 ――僧問う、犬に仏性ありや

 ――趙州和尚曰く、無

これは難解をもって鳴る、13世紀・宋代の公案集『無門関』48則中の第1則、いわば禅問答の「いろは」の「い」なのだが、これがとんでもなく難しい。『夢十夜』で脂汗を流す侍は、ついに「無」の意味を把握できず、自刃の覚悟をせざるを得ない。漱石にはこのほか『草枕』や『門』にも、禅問答の経験や読書を想わせる跡が残っている。

本書の著者は、問答を解説しながら説く。「山川草木悉く仏性あり」と、犬を含めたあらゆる存在に仏性を認めた禅思想の教えに、和尚の答えは敢えて異を唱えている。なぜか?――この「なぜか」が禅では大切なのだ。思考はここからスタートする。師が弟子に答えを教えてしまうことはたやすい。しかしこの流転する世に、永遠・普遍の真理などあり得ない。人が誰の力をも借りずに考えに考えを重ね、知恵の限りを尽くしてこそ、辛うじて一瞬の真理を掴むこともできる。

禅宗にはそもそも拠るべき経典がない。宗派の存続は従って、1つの器に入った水を次の器に注ぐように、師の心の真理を弟子へと順次に伝えることによる。その方法を示したものこそが、公案という名の禅問答集だった。老師は弟子たちをひたすら考えさせ、彼らの中で最も深く自らと宇宙を見詰め、また最もしなやかに考え続けた者をこそ、後継者に選んだ。

だからこそ禅問答は、ただに「わけのわからないもの」ではないと著者は言う。禅門第1の公案集『碧巌録』にある有名な問答「洞山麻三斤(とうざんまさんぎん)」。

 ――僧、洞山に問う、如何なるか是れ仏

 ――洞山曰く、麻三斤

仏とは一体どのようなものかと問われた洞山は、麻布でできた800グラムほどの袈裟1着だと言い放つ。「仏とはその袈裟」つまりは「お前自身が仏なのだ。それに気づけ」と。先の「趙州狗子」も、そもそも自己の仏性をすら把握せずに、犬の仏性などを取り沙汰する愚を指摘しようとしていた。

このように著者は、一見荒唐無稽に見える禅問答の向こう側に潜む「論理」をゆっくりと取り出して見せ、禅の世界観から説明を加えながら、「こころ」「真理」「悟り」「修行」「死後」などをめぐる代表的な禅問答を紹介して行く。酷暑の夏、緑陰で清涼なもう1つの世界に「クワッ!」と目を見開いてみるのは如何だろうか。
『活字と自活』
著者: 荻原魚雷
出版社: 本の雑誌社
参考税込価格: 1,680円
ISBN-10: 4860112067
ISBN-13: 978-4860112066
4860112067.jpg
〈古本屋通いをするために、就職しなかったといっても過言ではない〉という著者が、ブログや雑誌で発表した「食べていくこと」にまつわる身辺雑記と読書エッセイをまとめた一冊。

私は、著者と同じ中央線沿線に住んで出版の仕事をしながら、読むのは新刊のベストセラー中心で、古本屋めぐりをする趣味もない。著者が熱烈なファンだという辻征夫、黒田三郎という詩人の名前すら知らなかった。なので、読書エッセイとしてのこの本の妙味は、きちんと味わえていないのだと思う。だけれど、タイトルになっている「活字と自活」問題は、自分にとっても他人事ではない。

〈自由で気ままな暮らしを謳歌するために、なるべく義務や責任を負わないような仕事をしてきた。最低限の生活費を稼いだら、後は好きなことしかやらない。だから貧乏だけど、時間だけはたっぷりある〉
〈二十代のころは月十万円くらいの収入で、……こんな生活がいつまでも続けられるとは思わなかったけど、それでもなんとかなるような気がしていた〉

著者は私とほぼ同世代。二十年前は出版界でまだフリーの人にも回るだけのお金が動いていた。フリーターという言葉が、新しい自由な働き方のスタイルとして、好意的に使われていた。だから、著者がそんな生活に惹かれるのは、気持ちとしては分かる。……これは共感。

しかし著者もついに四十の大台に乗った。クレジットカードなし。携帯電話なし。年金未払い。いまだ原稿料収入だけでは食えず、アルバイトで生計を立てる。そのアルバイトも、仕事の選択肢が狭まり、年下の社員に煙たがられるようになる。〈「フリーターに未来がない」とはおもわないけれど、「フリーターの未来は楽ではない」〉。

当たり前でしょう。そんなこと二十年前から分かってたじゃん。今、出版界の景気がこんなに悪くなってなかったとしても、現場で走り回る若い編集者は、「自分の書いたものを読んで頼みたいとおもってくれた人以外とは仕事をしない」なんて言ってる年上のライターさんに仕事を頼まないよ。……これは反発。

そんな共感やら反発やらに掻き立てられて、途中から、全然心穏やかに読めなくなってしまった。毎日暑いから、洒脱でゆるめで気楽に読める本がいいなと思って読み始めたのに。

ただ振り返れば、物書きの貧乏は、明治の時代からの定番テーマで、本書の中にも、〈僕に、どうにか小説を書ける丈の、最低の金を与へて下さい〉(中井英夫の日記)といった、作家や詩人が生活の不安を訴える文章がいくつも紹介されている。著者の境遇も、その流れに位置づけられるものだから、語り口には品があり、それを達観しておもしろがっている風もある。

さらに風呂敷を広げれば、これまでは、物書きなんてヤクザな商売を好きで選んだのだから、貧乏なのは自業自得、しょうがないでしょう……と思われていたのが、いまや、安定したまっとうな職につける方が少数派。どこの業界でもフリーターの方が標準になってしまった。そういう意味では、物書きの世界は、「先の見えない人生」を送る先達がたくさんいるということだ。

そういえば、最近私が手にとったのは、東大の宇宙工学の大学院を出て無職のまま結婚し世界貧乏旅行に出た近藤雄生氏(一九七六年生)の紀行エッセイ『遊牧夫婦』(ミシマ社)。氷河期を勝ち抜いて一流企業に就職しながら、自分探しの転職を繰り返す学歴エリートを取材した『仕事漂流』(日経BP社)。人生と職業をめぐる価値観は確実に大きく変わっている。著者に対して「大体、人生の見通しが甘すぎるよ」などと独り言で説教している自分のほうが時代遅れで、著者の生き方こそが、後に続くロスジェネ世代の範となるトップランナーなのだ、きっと。

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