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いつまでもやりかけの「死」

『「出会う」ということ』
著者: 竹内敏晴
出版社: 藤原書店
参考税込価格: 2,310円
ISBN-10: 4894347113
ISBN-13: 978-4894347113
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著者・竹内敏晴が逝ったのはこの九月七日。死の三か月前に告知された肺がんが命取りになった。抗がん剤その他の西洋近代医学の侵襲的な治療を拒み、QOLのような社会的な配慮とも無縁なところで病と対峙し、何よりも東京の仲間たちとの公開レッスンである「八月の祝祭」を優先させた挙句の最期で、そのわずか一週間ほど前に公演を終え、地元の名古屋で入院した直後の出来事だった。

本書はそんなさなかに制作が進行していた竹内最後の著作。第一章と第二章は雑誌に掲載された談話原稿への加筆・修正によって成り立ち、第三章をはじめとするその他の部分は、イバン・イリイチほか、竹内本人の最近の思索と体験にもとづいた「出会い」についての書き下ろしでできている。その成り立ちも構成も、これまでの彼の著作同様あえて体系的な形をとっていないが、外形への配慮から自由であろうとする強さや自在さが際立ち、迷いを含まざるを得ない人間的なマニュフェストと、迷いを無視する機械的なマニュアルとを混同しがちな現代社会に対する、いつもと変わらぬ批判になっている。結論ではなく、方法をたどっていくとどこに出るかということを追い続ける強い意志と予断のない潔さは、ほかの書き手にないスリルを感じさせてくれるといっていいだろう。

演劇の場で「からだ」に覚醒し、レッスンの場でこれを具体的な体験として追求し続けた竹内の思想的な足跡を、他の人間が言葉で要約することは不可能だ。しかし、幼いときに中耳炎を患い、生涯を聴覚障害者の生々しい記憶のなかに生きた彼自身の言い方を借りるなら、人と人の「出会い」とは、「斬るのではなく、斬られにいくこと」に真髄があり、その結果、「何かが花火のように火花を散らして世界が変わること」ということになるのだと思う。予め決められた互いの何かを、マニュアルのようにただ確認する作業から離れて、「私はここであなたの看板に会いたくはない」と宣言する者同士が、あるときある場所で、予断のない本当の自分と相手に出会うこと。その思いがけない奇跡のような必然のなかにしか、よくも悪くも豊かな関係はあり得ないことを、障害者としての生い立ちや敗戦、そして戦後日本の経験のなかから、彼は徹底して学んできたのだと思う。その意味では加藤典洋が指摘した戦後日本の奇妙な「ねじれ」を、竹内は彼自身の「からだ」という視点から、具体的に見つめ直したという印象もある。

本書には直後に控えていた竹内個人の具体的な死の影はない。しかし、本書が扱っているのは、非連続的な偽りの生を射程に入れた、広い意味での死(生命の連続)の問題だけであるといっていいような気がする。「あとがき」のなかに、その覚悟について語ったと思しき一節があるので最後にあげておこう。
――西田幾多郎のことを読んでいて、彼の晩年に、高山岩男が『西田哲学』という本を書いた時のエピソードを知った。西田先生に学んできたが、先生の考えは体系的に語られていないからひとつひとつの体系に組んでみようとして書いたという。それに西田幾多郎が序文を書いて、「哲学者は体系を生みだすものであるだろうけれども、自分にはその余裕がない」と書いた。「自分は常に抗夫である」と。先に掘り進んでいく、一人の抗夫にすぎないと言い方をしている。ああ、なるほどと思った。わたしもまた、どこに掘りあてるか突き抜けるか判らない冥い道を、鉱脈の予感に従って手探りして掘っていく一人の抗夫だ、と。

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