2009年11月アーカイブ

『ピアノを弾くニーチェ』
著者: 木田元
出版社: 新書館
参考税込価格: 1,890円
ISBN-10: 4403231152
ISBN-13: 978-4403231155
4403231152.jpgたしか阿川弘之さんの本で読んだ覚えがあるが、米内光政は同じ本を3度読んだという。最初はざっと読み、2回目は精読し、3回目は考えながら読む。それで、ようやく本が頭にはいり、身につくと考えていた。メモ魔だったのは柳田国男である。彼の読書法は3、4ページくらい読んだら、1分間くらい休んで考えてみるという方式で、無理をして1冊を全部読み通さなくてもいいし、むしろ2、3冊くらいを交互に読むのがちょうどいいと思っていた。その代わり、頭の中ではきちんとジャンル分けができていて、気になった部分は必ずカードにメモをとっていたようだ。

それにくらべると、ぼくの読書法はいかにもざっぱくで、サラリーマン時代は通勤電車の中で、適当に時代小説やミステリーを流し読みして、時間をつぶしていた。哲学や思想、歴史の人文書もけっこう買ったけれど、けっきょくそれで満足、そうした本はいまも本棚の隅に眠っている。退職して少しは時間ができたので、そろそろ昔買いこんだ本を読み直そうかなと思っているさなか、本書に遭遇した。

読書は老後の楽しみとはいうけれど、哲学の権威として知られる著者のあふれんばかりの知的好奇心には圧倒される。もともと満洲に生まれ、江田島の海軍兵学校で訓練を受けているとき、広島に原爆が落とされたのを見たという人だ。放浪と模索の日々の中で、ドストエフスキーとキルケゴールに出会い、さらにハイデガーの『存在と時間』を読みはじめたが、これがさっぱりわからない。やはり大学で専門的な訓練を受けなければ、とても読めないと思い、東北大学の哲学科に進学したという。

哲学のおもしろさはどこにあるのだろう。著者によれば、常識とか定説が何十年、あるいはせいぜい数百年の枠組みしかもたないのに対して、哲学は千年、二千年のスパンで物事を見たり考えたりする。だから、それ自体あまり現実性はないけれど、哲学的な思考を補助線のように使えば、それまで見えなかった現実の構造が立ち現れてくることがあるのだという。

ハイデガーはそうしたスケールの大きな哲学者である。どちらかというと、実存主義者とか、ナチスの協力者というレッテルを貼られて、簡単に片づけられがちだが、かれのすごさは哲学の大海に位置づけるときに、はじめて浮かび上がってくる、と著者はいう。『存在と時間』は、かれの目指していた哲学のほんの序の口にすぎなかった。ハイデガーの出発点はアリストテレスであり、未完に終わった『存在と時間』の後半がもし書かれていれば、人間存在の分析にとどまらず、存在一般の意味の究明へといたる壮大な哲学が生まれたはずだと著者は想像をめぐらしている。

西洋におけるアリストテレスの再発見が、ここではまたものすごいことになっている。2300年前に古代ギリシア語で書かれた書物が現代に伝わること自体が奇跡かもしれない。それは「時空悠久の旅路」だった。アリストテレスはギリシアから中世ヨーロッパへとまっすぐ伝わったわけではない。ローマからビザンティンへ、そしてシリア、アラビア、中央アジア、北アフリカをまわり、ジブラルタル海峡を渡って、スペインやシチリアを通り、ようやくヨーロッパに到着するのだ。その間、1500年近い時が流れている。

こんなふうに書くと、むずかしい本にみえるかもしれないが、実のところ寝転びながら読める。これからもう一度哲学に挑戦してみたいと思う人のために「哲学の醍醐味が味わえる二十冊」といったガイドもある。文学者や哲学者のエピソード、小説やミステリーの紹介、パピルスや羊皮紙の話、それこそ本にまつわる話題(映画や食べ物の話も)が、きら星のごとくちりばめられている。ああこんなふうに本といっしょに最期まで生きられたら幸せだなと思わず感嘆してしまう一冊である。


『異形の心的現象』
統合失調症と文学の表現世界
著者: 吉本隆明、森山公夫
出版社: 批評社
参考税込価格: 1,890円
ISBN-10: 4826505108
ISBN-13: 978-4826505109
4826505108.jpg思想家(1924年生まれ)と精神科医(1934年生まれ)の対談集。2003年に出版された本の新装増補改訂版で、今年7月に行われた新たな対談を追加している。
03年4月、雑誌の特集のため吉本氏と森山氏が30年ぶりに対談したことがこの本の契機となった。02年夏、長らく「分からない」「治らない」「遺伝性」の病いだとされ、差別的に扱われてきた「精神分裂病」が「統合失調症」と呼ばれることになり、「統合失調症」を軸に話を深めてみようと本書の対談は語り起こされる。病名が変更されたのは、この病いは治るし、特別なものではないとの認識が進んだからだ。第3章で森山氏が言うように、たとえば孔子の言う「狂狷」の「狂」は物事にひどく熱中していくこと、「狷」は頑固に自分を固守することで、この構造は全ての人の中にある。ただ、ここまでは健常でここまでは異常だという境目の塀(閾値)がある場合、その閾値が高くて異常の方に移らない人と、低くて移りやすい人の個人差はあり、その違いがどう決まるかというと、乳幼児期における母親との関係が大きく影響する。きちんと触れ合えた、受け止められた体験が重要で、この体験を通して人間への基本的信頼関係が作られ、閾値が違ってくる。だから対談は、家族、精神世界、それらを包む「社会」に触れて話が展開していく。

一読目で印象に残ったのが、この本の契機となった03年4月の対談(補章1として収録)で、吉本氏がこう発言していることだ。もし子どもが犯罪を犯したら、〈当然、親ですからそこのところだけは責任を負う。責任を負うというのは、何をするのか具体的には分からないですけれども、最終的な責任を負うということは意識の中に入れておこうと思いますし、それしか解決のしようがないと思うのです〉。
というのも、今年11月、2年半の逃亡の末、英国人女性殺害容疑で逮捕された容疑者の両親が会見しているのをテレビで見て、胸が痛くなったのだ。責任について意識の中に入れておくのは親の本能に近いものだけれど、親だってどうしようもないことがある。子どもを持つ喜びは人生において掛け替えがないほど多大だが、子どもを得た瞬間から、親の心の一角には四六時中子どもがいて、「気にかける」「思う」関係が営々と続く。捨てることよりも、捨てきれないことの方が人間的で、そこでの懊悩は大きい。親は子どもがどんなふうでも気にかけ、どう判断すべきか、行きつ戻りつする。
そしてどの家族も、常に、社会の状況と関わり合っている。子どもにとって広義の親である社会は匿名性たっぷりで、それこそ子どもが不調になれば、「不肖の子」と決めつけ子どもの前から消えてしまう。まずは母親(父親も)が乳幼児期に子どもを慈しんで閾値を上げておくことが大事なわけだが、社会が病んでいたらどうなるか。

〈親が子を殺したり、子が親を殺したりということが起こるのはなぜかという原因を求めるとすれば、それは母親と子どもの関係が一歳未満のところまでに、相当大きな違和感とか潜在的な対立感、恐怖感に浸食されていて、それが正常な神経をしている社会よりも非常に大きくなってしまっているのが原因ではないかと考えています。/そう考えると、どこにも歪みのない家族なんてないよ、ということになるわけです〉と、吉本氏は言う。〈病気が裏返った〉、とも。〈今は逆になっていて、むしろ追及する人の方が病気だと僕には思えるのです〉。
今の社会が果たして病んでいるのかは私には分からないが、心的現象と文学との親和性、今年行われた対談で語られる「うつ病の変容」など、内容は多岐にわたり、世の中の趨勢におもねずいつも少数派だけれども健常な、吉本氏、森山氏の肉声が読める本。売れっ子の著者による新刊がどしどし出る中、一度刊行した本を数年経て手直しして出しているところも珍しく、新たな対談を読んで、その価値はあったと思う。
『脳科学の真実』
脳研究者は何を考えているか
著者: 坂井克之
出版社: 河出書房新社
参考税込価格: 1,260円
ISBN-10: 4309624057
ISBN-13: 978-4309624051
4309624057.jpgベストセラーになった、あるビジネス書を読んでいたら、「自分が行動する上で参考にするのは、投資・経営・スポーツの世界で成果が上がって実証された原理原則と、脳科学の根拠があることだけ」と書かれていて、のけぞってしまった。

いまや、それほどまでに絶対視される脳科学。タイトルに「脳」がつくと本がよく売れる、いわゆる「脳ブーム」は、出版業界の他のブームと比べると、ずいぶん息が長い印象がある。

でも。単純な足し算や引き算をする「脳トレ」で本当に脳が鍛えられたりなんかするのか? 記憶力強化やぼけ防止について語るのはまだしも、「脳科学者」が仕事や恋愛や天下国家まで語るのはどうなのか? 最近の売れっ子の著者の肩書「脳機能学者」って、一体何なんだ?

……等々の疑問にばっちり答えてくれるのが本書である。たとえば脳トレ。計算問題を解いているとき、たしかに前頭葉は活動している。だけれど、前頭葉はすべての五感や身体器官の運動を制御しており、「計算問題を解く」という行為と一対一対応しているわけでは全くない。さらに、「脳が鍛えられる」と言っても、それは計算の正答率や速度が向上したという結果をもってそう言っているだけで、脳の働きの向上とは全く関係ない。さらに「前頭葉が活動している」証拠として示される脳画像自体、実験データそのものでなく、データに数々の統計的処理をほどこして作られるものであり、「前頭葉が活動している」という結論ありきで、そう見えるような画像を作り上げる作業とほとんど変わらない。うーん、痛快。でも、巷に流布する脳をめぐる言説のほとんどが、脳研究の専門家から見ると、これほど根拠がないものであったとは、空恐ろしくなってくる……。

著者は、「脳トレ」が認知症の症状を改善させる可能性を否定しているわけではないし、「脳科学者」を自称する人々が説く人生指南を否定しているわけではない。ただ、それらを語るのに「脳」は必要ない、と訴えたいだけなのだ。

また、専門家による(これもありがちな)たんなる「脳ブーム」批判に陥らず、研究成果の社会への還元を執拗に求められ、社会的インパクト(=マスコミ受け)が評価の基準になってしまっているという、研究者を取り巻く状況の問題点を指摘し、研究者自身のありようを問う考察も、誠実で説得力があり、おもしろい。

文章も、科学ものを読んでいて、ヤヤコシイところがあるとすぐとばし読みしてしまう私が、どこも端折らず最後まで一気に読み通せる分かりやすさ。世の中のブームに、つい一言言いたくなる、私のようなケチつけ大王に強くお薦めする一冊です。
『カント 信じるための哲学』
「わたし」から「世界」を考える
著者: 石川輝吉
出版社: 日本放送出版協会
参考税込価格: 1,019円
ISBN-10: 4140911379
ISBN-13: 978-4140911372
4140911379.jpg赤ん坊の知的発達においては、「ハイハイ(這い這い)」の過程がきわめて重要だと言われる。自ら移動することによって、モノの見え方が次々と変わっていっても、それが同一物だと理解できるようになるからだ。自らの視点を転換してこそ、真実もつかめるというわけである。

そうであれば恐らく、人間が自らとこの世界の真理とをつかむためには、人間という視点から脱することが決定的に重要なのであろう。だがそれだけはできない相談である。人間は飛行機や人工衛星によって、大地から自らを引き離すところまでは成功した。遠い天体も極微の世界も人体の深部までも見つめられるようになった。しかし、「人間という視点」の外にだけはどうしても立つことができない。永久にできないであろう。だから、人間と世界の真理を決定的につかみたいという哲学2600年の夢は、つまりは右手で右手をつかもうとするような、絶望的に困難な闘いだったのである。

ところで、この2600年のうち2400年ほどが過ぎたところで現れたカントは、それまでの哲学を根本的に変えたと言われる。人間という視点の外に立つことはできないまでも、立ったに準じるだけの仕事をしたカント。そのカントの目の覚めるような闘いの成果を伝える本書『カント 信じるための哲学』は、何やら抹香臭そうなタイトルで損をしている。しかしその「信じる」というタイトルの意味するところは、私たちがたとえどれほど言葉巧みに懐疑論やニヒリズムから誘惑を受け、冷や水を浴びせかけられようと、ついにこの世界の存在に疑いを持たず、またこの世界になお希望を託し続け得るのはなぜなのかについて、カントが発見したところを説く、ということなのである。

カントが現れるまで、人間の理性は神から分与された聖なるもので、その力をフルに発揮させていけば、あらゆる問題はついに解き得ると考えられていた。しかし解けないまま2400年が過ぎてしまったわけである。本書では、この点に関するカントの決定的な業績を次の2つだとする。1つは、人間の認識システムを解明し、理性の限界を見抜くことで、人間が一切を知ることは不可能であることを、他のどんな哲学者も及ばないほど徹底的に証明したこと。もう1つは、その一方で、私たちの目の前に広がる世界像は、人間共通の認識システムによって形成されている以上、人間にとっては完璧に信憑し得るものであることを証明したこと、であると。

本書の主眼は、哲学史上の金字塔と言われる『純粋理性批判』を上の2点に絞り込んで解明することにあるが、併せて『実践理性批判』を「善とは何か」を、また『判断力批判』を「美とは何か」を追究したものというテーマに限定し、有名なカントの「3批判書」の全体像をくっきりと結像させようとしている。

さらに本書では、カントの静的システムとしての認識を、知の運動に読みかえたヘーゲルや、カントの認識システムの総体を、「気遣い」というコンセプトで生き生きと統合させたハイデガーなど、現代哲学に至るカントの遺産継承にまで説き及び、カントによる哲学革命が1冊で立体的につかめるよう工夫されている。そのあまりの難解さゆえに名のみ高く、実際にはほとんど読まれていないと言われるカントに、読者を明快な筆で入門させようとする38歳の著者による清新な書。
『ほびっと戦争をとめた喫茶店』
著者: 中川六平
出版社: 講談社
参考税込価格: 1,890円
ISBN-10: 4062158345
ISBN-13: 978-4062158343
4062158345.jpgよくぞ刊行してくれた、と編集者に感謝したくなる本がある。だいたい、地味な本が多い。まず企画会議を通す苦労が並大抵ではないはずだ。どんなに凄い人文書でも、地味というだけで「ダメ」となってしまう。
あともうひとつ、きわめてワタクシ性の強い本もそう。上司の反応は「自費出版すればいいじゃん」となる。コレは世間に広く知らしめるべき得難い個性なのです、と力説したってムダ。
ちなみに本書はワタクシ性の極致である。なにしろ、日記なのだから。

軍属・家族あわせ十万人弱の米軍が日本にいる。その半数は沖縄だが、山口県岩国市にも米海兵隊「岩国基地」(公的には「岩国飛行場」)がある。田布施町生まれの佐藤栄作の選挙区内(一九七二年まで)。
この基地の近くには昔、「反戦喫茶」があった。ベトナム従軍米兵に軍隊生活と異なる場を提供し、反戦機運を高めるための喫茶店。一九六八年一月にジャクソン陸軍基地で始まった「GIコーヒーハウス運動」の日本版である。七〇年七月に青森県の三沢基地でその第一号、反戦スナック「OWL」が開業していた。
岩国でも展開しようと反戦市民団体「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)が七二年二月、あさま山荘事件の最中に開業したのが反戦喫茶「ほびっと」だった。米反戦活動家のコードネームがトールキン『ホビットの冒険』由来の「ロジャー・ホビット」であることから店名は決まった。初代店主にして後に晶文社で活躍した編集者、中川六平の書いた一九七〇年から七三年までの日記を書籍化したのが本書である。副題には「1970‐1975」とあるが、一九七五年四月三十日に南ベトナムが崩壊し、存在意義を失った「ほびっと」の閉店を決めた同年十一月までを勘定に入れている(実際に閉店したのは翌七六年一月)。

著者は同志社大学に在学中、二十歳でベ平連に参加する。ただ、どうも熱心になれない。はっきりいってノンポリに近い。反戦運動支援のため岩国市に来たはいいが、活動の中心になることはない。第二章の脱走米兵の軍事裁判支援(一九七〇年)、第三章「凧あげでファントムを止めよう」(一九七一年、川の小舟から凧をあげてファントムの飛行を実際に不可能にしてしまう)にしても、その記述は奇妙に熱がない。伝聞かあるいは後の加筆によるためか。平凡な感想と事実の描写に終始する。

ところが日記は一九七二年になって俄然光り出す。「ほびっと」店主就任がすべてを変えたのだろう。オープン前日の日記。「スパゲティー20人前の仕込みで1366円。原価でいうと約68円。定価の30パーセントに原価を抑えることが、喫茶店経営の秘訣だという。『喫茶店の経営』から盗む」。この『喫茶店の経営』、おそらく一九六七年初版の柴田書店版である。その頭に「反戦」はほとんどない。オープン当初は米兵や反戦の若者で賑わったが、やがて米兵の喫茶店への立ち入りが禁止されて経営が悪化。日記には連日、千円単位の赤字に悩む店主の売り上げの数字が書き込まれ、スパゲティー30円値上げ(180円になる)、人気メニューは自らがつくるヤキメシ、客の確保のためのランチ導入、新メニュー・そうめんの評判良好などベ平連とは無縁の話題が連なる。常連でときには喫茶店も手伝う三人娘(のち四人娘)など仲間たち(その一人、ジョウコちゃんは児童文学作家の岩瀬成子)との交流の描写がとくに楽しい。

店主だった期間は七三年までの一年半。新潟の両親との約束で、卒業のため大学に戻らざるをえなかった。だがこの期間がいかに充実の日々だったことか。ベ平連の反戦活動にささげた青春時代が、まさに最上のモラトリアムとなっていたのだ。つまりこの本、一見日記そのものだが、通読するとひと味ちがった青春小説になっていることがわかる。考えもないままに巻き込まれながら、次第にマジになっていく主人公。その世間ずれしていない姿には、過去を懐かしむ団塊世代もさることながら、今の若者も共感できるだろう。

気になることがひとつだけある。鶴見俊輔による巻末の解説には「マスターの中川六平は焼きうどんを得意とし、私はそこでよく食べた」と書いてある。だが日記の中のメニューに「焼きうどん」は出てこないのだ。これは「裏メニュー」というものなのだろうか?
『始まっている未来』
新しい経済学は可能か
著者: 宇沢弘文・内橋克人
出版社: 岩波書店
参考税込価格: 1,470円
ISBN-10: 4000244507
ISBN-13: 978-4000244503
4000244507.jpg民主党政権が誕生して、小泉流の弱者切り捨て政策が捨てられ、新たに友愛を掲げる総理が日本の政治を動かすことになった。友愛とは何とも古風なキャッチフレーズだけど、それでも鳩山の口からまじめにこの言葉が出てくると、妙にインパクトがある。小沢の口からは絶対に出てこない言葉だろうし、亀井だって言わないだろう。ひょっとすると谷垣なら、案外似合うかもしれない。

しかし民主党政権の今後にとっては、やはりまず第1に経済政策をどうするのかが大きな問題になるのではないか。友愛を旗印に掲げる経済政策とはどんなものなのか。弱者救済、みんな幸福にと言うのは簡単だろうが、具体的には何をするのか。子ども手当てに高速料金の無料化だけでは、なかなかうまくはいかないだろう。

今、資本主義経済、グローバリズム世界での経済のあるべき姿を語って、もっとも心に沁みる言葉を口にしてくれるのは内橋克人である。小泉時代、あの竹中を筆頭にして多くのエコノミストがああでもない、こうでもないといい加減なことをぶちあげ、経済予測をしてはほとんど誤ったことを言っていたのは、記憶に新しい事実である。中には「ミラーマン」まで現れる始末だった。

そうした中で、真に人間味溢れる経済観と冷静な考察とをもって、内橋は多くのエコノミストとは一線を画していた。その内橋と経済学の大御所宇沢弘文が失われた20年を振り返りながら、市場原理主義者のもたらした悪を断罪する書物である。一読して大きな感慨に襲われた。規制緩和がもたらした悪が批判の対象になっているのだが、それはこの本を読む前から予想されたことである。しかしそれでも、これだけの大混乱をもたらした経済学者たちに対して、やはり大きな声を挙げなければならないとの思いが、ひしひしと伝わってくる書物であることは間違いない。

さて鳩山政権は友愛の具体化として、この二人の声をどれだけ聞くことができるのだろうか。
『俳の山なみ』
名粋で洒脱な風流人帖
著者: 加藤郁乎
出版社: 角川学芸出版
参考税込価格: 2,100円
ISBN-10: 4046214589
ISBN-13: 978-4046214584
4046214589.jpg第1部「俳人ノォト」と第2部「實話私註自句自解」の2部構成の本だが、第2部は言わば加藤郁乎ワールド、「俳人ノゥト」に絞って紹介したい。

明治以降の江戸趣味の俳人・俳文学者・小説家など三十人が取り上げられる。俳人としても知られる尾崎紅葉、夏目漱石、泉鏡花、久保田万太郎、室生犀星、芥川龍之介らの作家が除外されているのは、すでによく紹介されているためだろうか。巌谷小波、永井荷風、内田百間などの作家は上っているので、趣味の問題もあるのかもしれない。市井の俳文学研究者・考証家・古書店主などが、たいていは発表することもなくひっそりと作っていた俳句を紹介し顕彰することが、本書執筆のねらいかとも思える。一人だいたい4~5ページの短い人物スケッチだが、代表句をいくつか引きながら、俳文学における業績を簡潔に紹介している。代表句といっても私などは始めて目にする句ばかりだが、そうした句を自在に抜き出してくることができるのが、この著者の膂力なのだろう。その一端を紹介してみよう。

岩波文庫に『蕉門の人々』や『古句を観る』などの著書のある柴田宵曲からは、
  鳥雲にマッカーサーは帰りけり
  鶏頭に立つや涙の乾くまで
などのモダンな句が引かれている。2句目は寒川鼠骨の死に寄せた句である。俳書の出版で知られる籾山書店の店主・籾山梓月も『江戸庵句集』で、
  此の節に友達もなし園八忌
  双六や眼にもとまらぬ幾山河
などの句を詠んだ。「園八忌」は浄瑠璃の薗八節の祖、宮古路薗八の忌日とのこと。岡野知十は「遊俳」で知られた俳人だが、生前には1冊の句集も出さなかったらしい。
  春興に妻の名とめよ句によみて
  ゆく春や小袖にのこる酒のしみ
1句目には「其角の妻の名はしらず」と前書きがある。
「風流文人」として紹介されている岡本綺堂の俳句もはじめて知った。
  すつぽんの恋知る頃や水温む
  売れ残る雛のなみだや雨の市
さすがは江戸文芸の泰斗。そのまま芝居の一場面にでもなりそうな、しっとりした情緒の伝わってくる句ではないか。私小説の雄、上林暁にも『木の葉髪』という句集があるという。
  うつくしき天の川見ず十三年
  春の夜の夢で左手に字を書けり
1句目は脳出血で倒れ病臥したままの年月を述懐したものである。昭和44年芸術院会員に推されて詠んだ句、
  文化の日勲章もらひて俗化せり
もこの作家の人となりを髣髴させられるような、どこか軽みのある句だ。
70歳で『荷風句集』を出した永井荷風は、死の3年前にも芝にある其角の墓へ墓参りをしていたらしい。昭和27年の作だが、著者によれば辞世の句と見てよいとされる
  かたいものこれから書きます年の暮
には、本当かなと思いつつ、笑ってしまった。また日夏耿之介がこの1句と推した
  紫陽花や身を持ちくづす庵の主
は、いかにも荷風らしい、いや荷風らしすぎると言ってもいい風狂の句ではないだろうか。
千代田区立図書館に内田嘉吉文庫があり、縦50cm以上もある古い欧米の写真集や地図帳に度肝を抜かれるが、その子息内田誠は水中亭と号した。
  秋風に自転車を置く柳かな
  ふところに菓子の包みや路うらら
明治製菓の宣伝部に勤めていて、その部下が戸板康二だったという。

このほか国文学者の藤井乙男や山口剛、芥川龍之介の主治医・下島空谷、内田百間の六校時代の先生・志田素琴などの素描もあるが、興味をもたれた方は本書を読んでいただきたい。取り上げられた俳人たちは、其角好き・江戸好き・書物好きで、それぞれに交流のある場合が多く、俳句を底で支えてきた「山なみ」と著者は説いている。本の町・神田神保町がにおってくるような本である。第2部の「自句自解」は、江戸俳諧考証家を名のるこの著者の独壇場で、辞書と歳時記を片手に読み進んだことを告白しておく。
『「出会う」ということ』
著者: 竹内敏晴
出版社: 藤原書店
参考税込価格: 2,310円
ISBN-10: 4894347113
ISBN-13: 978-4894347113
4894347113.jpg
著者・竹内敏晴が逝ったのはこの九月七日。死の三か月前に告知された肺がんが命取りになった。抗がん剤その他の西洋近代医学の侵襲的な治療を拒み、QOLのような社会的な配慮とも無縁なところで病と対峙し、何よりも東京の仲間たちとの公開レッスンである「八月の祝祭」を優先させた挙句の最期で、そのわずか一週間ほど前に公演を終え、地元の名古屋で入院した直後の出来事だった。

本書はそんなさなかに制作が進行していた竹内最後の著作。第一章と第二章は雑誌に掲載された談話原稿への加筆・修正によって成り立ち、第三章をはじめとするその他の部分は、イバン・イリイチほか、竹内本人の最近の思索と体験にもとづいた「出会い」についての書き下ろしでできている。その成り立ちも構成も、これまでの彼の著作同様あえて体系的な形をとっていないが、外形への配慮から自由であろうとする強さや自在さが際立ち、迷いを含まざるを得ない人間的なマニュフェストと、迷いを無視する機械的なマニュアルとを混同しがちな現代社会に対する、いつもと変わらぬ批判になっている。結論ではなく、方法をたどっていくとどこに出るかということを追い続ける強い意志と予断のない潔さは、ほかの書き手にないスリルを感じさせてくれるといっていいだろう。

演劇の場で「からだ」に覚醒し、レッスンの場でこれを具体的な体験として追求し続けた竹内の思想的な足跡を、他の人間が言葉で要約することは不可能だ。しかし、幼いときに中耳炎を患い、生涯を聴覚障害者の生々しい記憶のなかに生きた彼自身の言い方を借りるなら、人と人の「出会い」とは、「斬るのではなく、斬られにいくこと」に真髄があり、その結果、「何かが花火のように火花を散らして世界が変わること」ということになるのだと思う。予め決められた互いの何かを、マニュアルのようにただ確認する作業から離れて、「私はここであなたの看板に会いたくはない」と宣言する者同士が、あるときある場所で、予断のない本当の自分と相手に出会うこと。その思いがけない奇跡のような必然のなかにしか、よくも悪くも豊かな関係はあり得ないことを、障害者としての生い立ちや敗戦、そして戦後日本の経験のなかから、彼は徹底して学んできたのだと思う。その意味では加藤典洋が指摘した戦後日本の奇妙な「ねじれ」を、竹内は彼自身の「からだ」という視点から、具体的に見つめ直したという印象もある。

本書には直後に控えていた竹内個人の具体的な死の影はない。しかし、本書が扱っているのは、非連続的な偽りの生を射程に入れた、広い意味での死(生命の連続)の問題だけであるといっていいような気がする。「あとがき」のなかに、その覚悟について語ったと思しき一節があるので最後にあげておこう。
――西田幾多郎のことを読んでいて、彼の晩年に、高山岩男が『西田哲学』という本を書いた時のエピソードを知った。西田先生に学んできたが、先生の考えは体系的に語られていないからひとつひとつの体系に組んでみようとして書いたという。それに西田幾多郎が序文を書いて、「哲学者は体系を生みだすものであるだろうけれども、自分にはその余裕がない」と書いた。「自分は常に抗夫である」と。先に掘り進んでいく、一人の抗夫にすぎないと言い方をしている。ああ、なるほどと思った。わたしもまた、どこに掘りあてるか突き抜けるか判らない冥い道を、鉱脈の予感に従って手探りして掘っていく一人の抗夫だ、と。

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