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東海亮樹による最近のブログ記事

『東京右半分』
著者: 都築響一
出版社: 筑摩書房
参考税込価格: 6,300円
ISBN-10: 4480878513
ISBN-13: 978-4480878519
4480878513.jpg表紙の美少女はラブドールというもので、なんというか「南極○号」という名前も付いていた、アレである。製造元は上野のオリエント工業といって、その世界(どの世界だ?)では最も精巧なドールを作る会社として知られているそうだ。この格調高い「神保町の匠」ブログにはふさわしくないエロい写真で恐縮だが、表紙のインパクトに負けず、内容もすごい本なのだ。レジに持っていくのが恥ずかしいかもしれないし、6300円という値段も高いかもしれないが、ぜひとも手に取ってほしいと思っている。

「東京右半分」とは文字通りで、地図で東京の右側にある台東区、墨田区、江東区、葛飾区、荒川区といった下町地域を中心としたエリアを指す。世界のヘンなものを探し歩いた「珍世界紀行」シリーズで知られ、「天国は水割りの味がする」(廣済堂出版)でスナックの文化誌を活字化した著者が行き着いたのが「右半分」。安全・安心と清潔を求め、ブランド店やショッピングモールという大資本のパッケージ開発に蹂躙されてしまった東京の西側とは一線を画す秘境が東側にはある。

どこから紹介すればいいのか迷うほど「右半分」のジャングルは奥深い。伝説のグランドキャバレー「ハリウッド」は赤羽で時代を超えて健在だし、日暮里は社交ダンスでにぎわう。アジアという要素も重要だ。タイのカルチャーセンターまである錦糸町を「リトルバンコク」と著者は呼び、フィリピンパブの密集地・竹ノ塚に深く潜行する。浅草のふんどしバー、湯島の若衆バーは「右半分」の変態…いや偏愛さを浮かび上がらせる。日本画の美をファッションにリミックスした「和柄」は亀有が聖地だそうだ。

そんなディープなスポットの人々に肉迫したインタビューと、膨大な写真が収められている。こわいもの見たさであっても十分に楽しめる本だが、注目すべきは、その都市論だ。「獣が居心地のいい巣を求めるように、カネのない、でもおもしろいことをやりたい人間は、本能的にそういう場所を見つけ出す。ニューヨークのソーホーも、ロンドンのイーストエンドも、パリのバスティーユも…」。

都市社会学に「インナーシティ理論」というものがある。旧市街はいったん衰退し、その郊外が文化的に発展する。しかし郊外文化はやがて陳腐化し、再び旧市街(インナーシティ)がクリエーティブなパワーを持ち始めるという理論だ。旧市街は家賃も物価も安い。周囲に防衛本能の強いおカネ持ちもいない。だからマニアックな店もつくれるし、アナーキーな文化融合も起きるのだ。

ヘンなものに限らず、無国籍風のバーやコアなマイナーな音楽にこだわるカフェなども取り上げられている。本書は「右半分」が、ソーホーにも並ぶインナーシティであることを見事に証明したフィールドワークと言えよう。日本のソーホーは、昭和の遺産と、エスニックカルチャーと、ハングリーでクリエーティブな若者文化が、坩堝のなかでグツグツと煮込まれているのだ。

東京スカイツリーのせいで下町ブームなるものが起きているが、下町情緒を懐古するだけではつまらないし、意味がない。東京の下町はいま最もホットな前衛なのだと認識しながら、街を歩きてみようではないか。6300円は高いが、スナック2回分と思えばいい。どちらにおカネを使うにせよ、同様にむせかえるような人間くささに出合えることは請け合いだ。
『小商いのすすめ』
著者: 平川克美
出版社: ミシマ社
参考税込価格: 1,680円
ISBN-10: 4903908321
ISBN-13: 978-4903908328
4903908321.jpg東日本大震災・福島原発事故から1年が過ぎたが、憂鬱な気分が続く。脱原発に舵が切られる可能性は不透明だし、被災地の復興は未来が見えない。大きな社会問題に対して個人が無力感を抱くのは仕方がないし、私ひとりが騒いだところで…とも思う。でも、ひとりの市井の人間だからこそ、3・11をどうやって「自分の問題」に血肉化すればいいのかと悩む。文明が転換するというのなら、生きていくための哲学の部分で納得したいと思う。

そんなモヤモヤをずっと抱えていたが、この小さな本はずいぶんと励ましになった。「小商いのすすめ」という題名はなにやらビジネス書のようだが、「小商い」という労働や生活のかたちを通して、3・11後の生活哲学を分かりやすくかつ本質的に示してくれている。

小さなIT企業の経営者で、内田樹氏の盟友としても知られる著者の言う「小商い」とは、昭和30年代ごろの家族経営の商店や、「ひとり親方」の小さな町工場が原型となっている。みなが「共和的」に貧しく、勤勉に働き、支え合いの共同体があり、何とか生きていけた社会だ。ガタガタになってしまったいまの日本社会をどうするか、その時代を参照点にしようと言う。

映画「Always 三丁目の夕日」への懐古ではと誤解を呼ぶかもしれないが、そうではない。あの映画はそもそもファンタジーだし、現実はみなが笑っていたわけではない。それでも著者がその時代を振り返ろうというのは、グローバル経済や高度消費社会による人間精神の荒廃に対置できるような価値があるからだ。

昭和39年の東京オリンピックを境に日本の光景ががらりと変わったという。著者は「人間と自然の関係が、一八〇度転換した」と言う。ドブ川はコンクリートで塞がれ、商店街の没落が始まり、人と人の袖触れ合う体温が町から失われた。それは進歩と発展という「経済成長の病」に罹患してしまったということだ。日本で原発が最初に発電をしたのもオリンピックの頃だというのは皮肉な符号だ。

天井が抜けてしまった資本主義は、人々の欲望が無限であるかのようなフィクションをつくりだし、原発はエネルギーが無尽蔵であるという虚構を生んだ。その結果が、殺伐たる消費社会であり、原発事故であったことは論を待たない。3・11前から本書を書き進めていた著者は、あの惨事からの復興のためにも「小商い」の発想が重要だと考えたという。

「貧乏は正しい」と著者は強調する。貧乏は「足を知る」という生き方であるし、貧乏でも自分には力があると思える人間は強い。貧しさは共同体の靱帯も太くする。経済が成長したからといって社会は成長するのかという問いは、人口も経済も縮小していかざるを得ない日本で、これから繰り返し考えられるべきだろう。

帽子屋の話がいい。かつての商店街には必ず1軒は帽子屋があった。家族経営だから一日に帽子がひとつ売れれば、どうにか食べていける。そのころ帽子は「大人の矜持」という精神的な商品だった。精神が経済に優先する商売が「小商い」の素晴らしさだ。ボロは着てても心は錦―これからの時代は、それでいいのではないかと強く思う。

経済成長という病から抜け出し、どうやって生きていくか。その結論は本書に譲るが、小さな状況で小さな人間が、豊かに誇りを持って生きるための哲学として大いに納得できる答えだと思う。
『日本を捨てた男たち』
著者: 水谷 竹秀
出版社: 集英社
参考税込価格: 1,575円
ISBN-10: 4087814858
ISBN-13: 978-4087814859
4087814858.jpg
自業自得だと言えば自業自得だし、同情する余地もないと言えばその通りだ。日本でフィリピンクラブに通い詰め、女性を追い掛けてフィリピンに渡り、金の切れ目が縁の切れ目で、ついにはホームレスになってしまった男たち。こうした日本人を行政用語では「困窮邦人」と呼ぶそうだ。フィリピンでホームレス…。自己責任以外のなにものでもないかもしれないが、そうした姿の向こうに現代社会の何かが見えるのではないか。日刊マニラ新聞記者の著者は、何年もかけてフィリピンの困窮邦人たちを丹念に取材していく。

工場の非正規労働の空虚さから逃げ出した男。50歳を超えて新聞配達をすることに疲れ果て、偽装結婚で訪れたフィリピンに夢を求めてしまった男。まじめ一筋だったけれどフィリピン女性の優しさにおぼれてしまった男。15万円もあれば日本へ帰れるのだが、日本大使館は渡航費用を出してくれず、家族とは絶縁して援助はしてくれない。確かに、日本の労働問題や家族関係、邦人保護の問題が透けて見えてくるかもしれない。

しかし、ことはそう紋切り型に終わるのではない。「困窮邦人は自分の都合のいいことしか言わない」。筆者はインタビューをした困窮邦人の話の裏を取るため、日本で家族や元同僚などを丁寧に取材する。その裏取りは緻密だ。家族に見放された者もいれば、寝たきりになっても異郷にいる息子を助けたいと言う親もいる。筆者からの援助を期待して同情を買うために嘘をついていた男もいる。下半身不随になってフィリピンの障害者施設に収容されている男は大学卒を自慢するが、まるっきり見栄で、学歴詐称だった。それぞれの事情は複雑だ。

人生のどん底に落ちた人間の生がむき出しになっている。誰が悪くて、誰が悪くないのかが分からなくなってくる。著者は同情と怜悧さの両方を持ちながら、男たちの人生を追っていく。このどうしようもない男たちを通して、人間の欲望や感情の混沌さをありのままに描いている。

一方、そんなホームレス日本人に対して、フィリピン社会は優しい。何の関係もない男に店を手伝わせて食事を与えたり、施設では介護士が無料で世話をしたりしてくれる。カトリックの影響もあるが、「私たちは貧しいので、食べ物はみんなで分け合って食べるというのが根付いています」と援助をするフィリピンの中年女性。もっとも転落の始まりはフィリピン女性が男を捨てたことに始まっているのだが、背景にはフィリピンの貧困の問題もあり、事情は入り組んでいる。

だがやはり、フィリピンの人たちの温かさと比べると、日本の「無縁社会」が悲しくも感じられてくる。不思議なのは、日本の帰国できることになってもフィリピンにとどまるホームレスの男もいることだ。帰れないのだろうか、それとも「帰らない」のだろうか。著者はまだ答えを出していないが、「日本を捨てた男たち」というタイトルをひっくり返せば「捨てられた日本」となる。長い取材をへて、そんな問題意識が芽生えてきたという。

いまの日本で生きることは幸福なのだろうか? 「死んじゃった方がいいと思う」とまで同胞から言われてしまう男たちの姿から、ぼんやりとして割り切れない生きづらさに満ちた日本社会が浮かんでくる。その像は乱反射しているが、そのことが本書を出色のルポルタージュたらしめている。昨年の開高健ノンフィクション賞受賞作。(了)

『クロニクルFUKUSHIMA』
著者: 大友良英
出版社: 青土社
参考税込価格: 1,680円
ISBN-10: 479176627X
ISBN-13: 978-4791766277
479176627X.jpg
不思議な音楽体験をした。8月15日に福島市で開かれたイベント「プロジェクトFUKUSHIMA!」をルポしたテレビ番組で、大友良英さんのギターと、坂本龍一さんのピアノがギーギージャカジャカンと即興演奏をし、詩人の和合亮一さんが絶叫に近い声で詩を朗読するステージを見た。不協和音のノイズであり、決して心地の良いものではない。しかし和合さんの「福島を生きる」という言葉と音楽が合わさり、「FUKUSHIMA」の〝内臓〝のようなものが現れたように感じ、背筋が寒くなった。

イベントは大友さんが呼び掛け人となり、「文化で福島をポジティブに変えよう」という目的で開かれた野外フェスティバルだ。芸能人の慰問などとは質がまったく違う。放射線の数値が高い野外でフェスをすることに悩み抜きながら、福島出身のアーティストらが福島の人々と議論を重ねて実現させた。AKB48もジャニーズも出ないのに、入場者は1万3千人を数え、インターネット中継は25万人が視聴した。驚くべきことだ。

それにしても、あのノイズの衝撃は何だったのだろう。なぜイベントを開こうとしたのか、福島にどう向き合うのかなどについて、大友さんと仲間たちとの対談を収録した本書が緊急出版され、さっそく手に取った。大友さんの言葉に手掛かりがあった。「即興は生存への問い掛けだから」。そう、色もにおいもない放射線が飛ぶ、とんでもない土地になってしまった福島じたいが予定調和できないノイズなのだ。ノイズ音楽、即興詩が、福島が抱え込んでいる「生存への問い掛け」を突きつけたのだ。

対談相手は、福島出身で伝説のパンクバンド「スターリン」のシンガー・遠藤ミチロウさん、ツイッターで「詩の礫」を発信し続ける福島在住の和合さん、職をなげうって放射線調査で福島を走破した科学者の木村真三さん、3・11以前から脱原発を訴えていた坂本さん、そして福島でスローフードカフェを営む家族たち。多くの人に共通するのは、3・11があって初めて原発という問題を考え始めたということだ。事故が起きて、何が何だか分からず、ショックを受け、氾濫する情報に戸惑い、何をすればいいのか模索し、そして立ち上がった人たちだ。

「音楽をやることが、この問題に対して何になるというのだろう?」と遠藤さんは自問する。和合さんは「必ず負ける者=詩人」だけれども「福島をあきらめない」と詩を書き続けたという。カフェの丹治博志さんは行政の無策に「自分たちが決断して自分たちでやらない限り、変わらない」と覚悟する。

大友さんは、10代を福島で暮らしたものの望郷心は持ったことがないという。福島を飛び出し、さらには日本も飛び出し、ボーダーレスな音楽活動をしてきた。運動なんか考えたこともないし、きれいごとには斜に構えていたという。しかし、3・11後は一生懸命に放射能のことを勉強し、福島の人々と話し合い、彼らの「心から血がだらだら流れているような感じ」に打ちのめされる。

現実の問題に対して文化は何ができるのかということは永遠の問いだ。大友さんのひとつの答えは「福島には祭りが必要だ」ということだった。福島から文化を発信して、「福島」という言葉をポジティブにする。それは文化にしかできないと。本当にそれができるのかと疑問も持ちつつ、とにかく動く。そうした姿は、文化に携わる者たち、いや普通の人たちにも、自分の立場で何をするべきかという問いを投げ掛ける。

3・11は自然現象としての津波であったと同時に、精神をも襲った津波でもあったと言われる。本書で発言をしている人々はその津波に遭いながら、苦しいけれど立っていようとしている。彼らは原発の専門家でも、職業的知識人でもない。私たちと同じ場所に立っている。だからこそ本書は、3・11を「自分の問題」として意識させてくれる魂の書となっている。
『革命家・労働運動家列伝』
著者: 樋口篤三
出版社: 同時代社
参考税込価格: 2,100円
ISBN-10: 488683700X
ISBN-13: 978-4886837004
488683700X.jpg
本書のタイトルを見た瞬間に「なんて本を選ぶんだ」「お前は絶滅危惧種の左翼か」などと顔をしかめる御仁もおられよう。とりわけ団塊世代より上の学生運動を経験した人々はそうであろうと推察する。しばし、お待ちを。まさにその嫌悪感、アレルギー感を問題としたいところなのだ。長髪を切って、企業戦士へと反転した世代には、革命なんか忘れたよ、と思い出したくもない過去の汚点なのだろう。しかし、そのおかげで、われわれ「革命を知らない世代」は何の歴史も伝えられてこなかったようだ。

目次を見て、軽いショックを受けた。「列伝」に登場する革命家の名前を私は一人も知らなかった。高野実、春日庄次郎、鈴木市蔵、中西功、一柳茂次…。それなりに歴史の知識はあるつもりだったが、名前の字面すらこれまで見たことがない。さらに前書きを読んで驚いたのは、「列伝」とはまさに「史記」の「列伝」を意識して書いたという。左翼が封建主義の根本思想である儒教に基づく「史記」にならうとは…。

しかし通読して合点がいった。著者は1947年の東芝労組をスタートに、京浜労働運動、三里塚闘争、国鉄分割民営化反対をたたかい続け、60年余を「職業革命家」(職革と言うそうだ)として生き、昨年に81歳で亡くなった。日本共産党を2回除名というところがみそだ。著者は「日本共産党にはあれだけ膨大な党史がありながら、革命家列伝はゼロ…実は列伝があって、その人物は一人だけ。宮本一〇〇%史観だ」と書く。「総じて左翼は人間論が弱い」とも書く。この列伝に取り上げられた人々はすべて、宮本顕治率いる「日共株式会社」を追放された、党からすれば「人民の敵」たちなのだ。しかし、党には「仁」がないが、彼らには「仁」があったと著者は言う。この点において史記列伝と革命家列伝が架橋されている。

総評結成に中心的役割を果たした高野実は、少数派から多数派を形成する鬼才と呼ばれ、「自分自身のアタマで知恵で発見し自覚し覚悟をきめていく」と共産党の非人間的な綱領主義に相対した。戦前に特高検事からも「その革命的熱意と献身的努力とは、事の善悪は別として驚嘆に値するものがある」と言わしめた老ボルシェビキ・春日庄次郎は晩年に新左翼の内ゲバを「体を張って」止めようとした。国労の闘志・鈴木市蔵は小学校卒で現場からたたき上げ、労組大会で浪曲師に義理人情をうならせるというお茶目さがあった。

左翼であっても最後は人間、そして儒教的な仁愛なのだと著者は本書で繰り返し強調している。「敵」ながら保守合同を成し遂げた三木武吉を「漢の高祖」に比するし、「地位も名誉もいらず、命を惜しまず」「志士仁人」とまるで武士道のように革命家を称える。一方で、宮本顕治が戦争直後、みながコッペパン1個しかないのに、白米と卵焼きの入った弁当を平気で広げていたことに激怒する。確かに思想以前に「人としてどうよ?」というエピソードではある。

私は20世紀の社会主義は失敗だったと思うし、独裁や内ゲバの惨劇を生んだと知っている。しかし一方で新自由主義をひた走り、格差社会を深刻化させたこの20年の日本にも疑問を持っている。そして、3・11が起き、日本は大きく変わらなければいけない岐路に立ってしまった。脱原発デモでは、若者たちが、赤旗を掲げるのではなくてラップ音楽に乗って、新しい抗議のスタイルを見せている。それでも警察は相変わらず「転び公妨」のようにそんな若者たちを逮捕する。

この大変な時代に、敗北した革命家たちの理論はもはや有効ではないとしても、その人間力にはなにがしか学ぶことはある。著者は自分の墓に「仁」の文字を刻んだという。そこに悲痛さとともに、少数者の燃えたぎる情念を感じる。知られてこなかった人間史に触れた思いがする。
『グローバル化を超えて』
著者: 西川潤
出版社: 日本経済新聞出版社
参考税込価格: 2,625円
ISBN-10: 4532352479
ISBN-13: 978-4532352479
4532352479.jpg東日本大震災の復興をめぐる議論では、経済特区で民活を促進したり、東北の企業をグローバル市場とつなげたりするなど「開発型」の提言が主に経済界から出されている。大資本が復興事業に参入したいという下心が透けて見えるが、阪神大震災の復興では、もうけは大手ゼネコンにじゃぶじゃぶと流れた。そうした開発が被災者に幸福をもたらすのかは、大いに疑問だと言わざるを得ない。

開発型の復興の根底にあるのは、経済成長至上主義の思想だ。インフラが整備され、高層住宅や大規模ショッピングモールが建てば、地域に雇用が生まれ、人々は豊かさを享受できるという理屈だが、構造改革の失敗を振り返れば、それは信仰にすぎない。本書を読めば、世界的なパラダイムシフトからみても、「成長信仰」はもはや人々を幸福にしないことが分かる。

本書は、世界経済研究の第一人者で国際開発学会会長でもある著者が、経済成長を優先してきたグローバル化がどのように行き詰まったのか、そして脱成長を前提に、いかに「ポスト・グローバル化」の時代を展望するかを、多岐にわたる視点から論じている。大震災以前に書かれたものだが、著者が序文で、福島第1原発の事故が物質的豊かさの追求が引き起こした結果だと言うように、まさに時宜を得た刊行だ。

グローバル化はさまざまな「不均衡」を生んだ。実物経済とマネー経済の不均衡、貧困や格差という社会的不均衡、そして自然破壊という環境的不均衡だ。著者は、グローバル化が「システムの不全に陥っている」と言い切る。そしてグローバル化の矛盾は、程度の問題ではなく、西欧起源の「近代社会科学」の思想そのものに原因があると指摘する。

考えてみれば、近代社会科学の人間像は歪んでいる。人間を自然と対立させることで自然破壊や資源収奪を是認する。人間は必ず自己の利益を最大化するように行動する「経済人」であると規定する。突き詰めれば、ホッブズの言う「万人の万人に対する闘争」が近代社会の前提なのだ。グローバル化のなかでは、多国籍企業という「リヴァイアサン」が暴れ回った。

グローバル化を超克するために、著者は「私たちの使う用語の基礎概念をある程度洗い直す仕事が必要になる」と記す。その用語とは「豊かさ」や「コミュニティー」、「発展」などを指す。物質的な豊かさから「足るを知る」という豊かさへ、大量生産のためのコミュニティーから持続可能・循環型の共同体へ、経済発展から人間の発展へという道筋だ。本書はその道筋を丁寧に指し示している。

「幸福」の再定義も重要だ。著者はノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センに負いながら、幸福とは、教育や医療など基本的なものが満たされた上で、社会参加を通じて能力を拡大していくことや生きがいという精神的な側面が充足されている状態だと言う。つまり「良い生き方」へと豊かさの概念をシフトしなければいけない時代が来ているという。

人間にとって精神的な充足が重要だということは当たり前に聞こえるかもしれない。しかし、近代社会科学は精神的な側面を射程に入れてこなかった。著者があえて孔子の「中庸」やアリストテレスの「善」について言及するように、私たちの社会や経済が「心の豊かさ」を軽視する構造から成り立っていたことは、あらためて認識すべきだろう。

それでもグローバル化の波と成長信仰のパラダイムは容易に突き崩せないだろう。著者は、非政府組織(NGO)や民間非営利団体(NPO)の反グローバル運動に期待を寄せるが、社会運動へのアレルギーが強い日本では難しいかもしれない。

著者が循環型コミュニティーの好例として挙げた、休耕田で菜の花を栽培し、油や飼料、代替燃料にリサイクルする滋賀県東近江市の「菜の花プロジェクト」や、米作のモノカルチャーを脱却し有機農業で農産物の多様化や地産地消を実現した山形県高畠町などが参考になるだろう。自らで決め、自らでつくり、そのことに喜びを感じるという共同体だ。日本人は拳を振り上げる抗議よりも、身近でささやかなことを変えていくことに長けている。それが新しい豊かさへの出発点ではないか。

大資本がパッケージで再開発をして、ハコモノはあっても人と人のつながりが薄れ、土地の個性を生かせない産業構造が導入されるような震災復興になってはいけない。復興についてのみならず、私たちがどのような大きな文明の転換期に立ち、どのように幸福を追求していくのかを考える新しい社会科学の入り口となる一冊だ。

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