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洪水のように店頭に並ぶ新刊のなかで、なかなか本に出会えない。
そんな悩みをもつ方も少なくないようです。
そこで、神保町の匠たちが、毎週、おすすめ本の読みどころ・よさ・すごさを紹介します。
目利きが〈選び・推し・薦める〉この本がいい!
人文・社会科学ジャンルでもこんなに素晴らしい本が刊行されていることにきっと驚かれることでしょう。     「神保町の匠とは?」

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『石橋湛山論』
言論と行動
著者: 上田美和
出版社: 吉川弘文館
参考税込価格: 3,990円
ISBN-10: 4642038132
ISBN-13: 978-4642038133
4642038132.jpg「つまみ食い」は、いけない。本書を読んで、改めてそう思った。

石橋湛山といえば、「小日本主義」という言葉が対になって出てくるのではないだろうか。私自身、勤務先の大学の「ジャーナリズムの歴史と思想」という授業で、彼のことを「戦前、雑誌『東洋経済新報』に拠って小日本主義を果敢に主張した言論人」として取り上げている。たしかに、たとえば、1921年7月23日号の『東洋経済新報』。「一切を捨つるの覚悟」と題した論説で、石橋は、朝鮮、台湾はもとより、「満洲」、「支那」、樺太、シベリア、つまり植民地や既得権益の「一切」を放棄することが結果的に日本の国益になる、と説いた。「大日本主義の幻想」という、ストレートなタイトルの長文の論説など、小日本主義を説いた論説はほかにいくつもある。

だが、満州事変から日中戦争、さらにアジア太平洋戦争と、まさに「大日本主義の幻想」が席捲した時代、石橋の言論はどのように変わったのか、変わらなかったのか。さらに戦後、政治家に転身し、自由民主党に身を置き、首相にもなった彼の主張は、どのようなものだったか。著者は、「全体像」として石橋を捉える必要性を強調する。

石橋の小日本主義について、研究者の間では、「本質は一貫していた」とする継続説と「放棄された」とする断絶説の対立がある。もちろん個別的なニュアンスはさらにいろいろ異なるが、小日本主義を石橋思想の「軸」にしている点では同じである。著者は、この「小日本主義という軸」に疑問を呈する。

石橋の小日本主義なるものを歴史の流れの中に、もう一度置いてみる。著者の方法は、こんなふうに言えるだろう。小日本主義の主張は、大枠にあった国際社会の協調を志向した第一次世界大戦後のワシントン体制に支えられていたのである。その肝心のワシントン体制が変容するとともに、小日本主義はその立脚点を失う。石橋の小日本主義は、戦間期固有の歴史性を帯びたものだったのである。

「小日本主義という軸」に換えて、著者は石橋思想の淵源に自立主義をみる。自己決定・自己支配・自己責任を最上のものとする考え方である。石橋の中国ナショナリズムに対する正当な感覚も、この自立主義に基づくものだった。

自立主義が石橋の、いわば「根っこ」だったとすると、具体的な主張の背景にあるのは、経済合理主義だったと著者は指摘する。たしかに「一切を捨つる覚悟」は、何も反植民地主義の立場からのものではなく、そうすることが日本にとって経済的な利益になるのだとして主張されていたのである。

しかし、自立主義といっても、「自立」の主体が問題だろう。石橋は、中国の自己統治能力への疑問を深めるとともに、日本の「侵略」を容認するようになった。ほかならぬ日本についても、ワシントン体制が変容するとともに、どうしたら日本は自立できるのかという、「持たざる国」としてのジレンマが現実化する。一方、経済合理主義についていえば、戦時下、「何が合理的なのか」に対する答は一義的ではない。石橋にとって戦争への協力と抵抗はコインの裏と表とならざるを得なかった。

自立主義と経済合理主義という視点は、たしかに「小日本主義という軸」に比べ、戦時下の石橋の言論の背景をずいぶんと明確にしてくれている。

しかもこの視点は、戦後、政治家になった石橋の言論と行動を理解するうえでも十分に力を発揮している。自立主義は日本の対米自主路線という彼の政治的立場を形成した。経済合理主義は冷戦下という状況で政経分離の日中貿易に主張になった。

東洋経済新報社が組織した「経済倶楽部」や『東洋経済社内報』に掲載されていた読者調査の分析など、著者が新しく発見した史料を駆使した部分など、本書のメリットはほかにもいくつかある。だが、やはり、「つまみ食い」を超えて、石橋湛山という一人の言論人・政治家の「全体像」を明らかにした点が最大の功績だろう。石橋湛山を小日本主義の「呪縛」から解き放ったといっていいかもしれない。
『東京右半分』
著者: 都築響一
出版社: 筑摩書房
参考税込価格: 6,300円
ISBN-10: 4480878513
ISBN-13: 978-4480878519
4480878513.jpg表紙の美少女はラブドールというもので、なんというか「南極○号」という名前も付いていた、アレである。製造元は上野のオリエント工業といって、その世界(どの世界だ?)では最も精巧なドールを作る会社として知られているそうだ。この格調高い「神保町の匠」ブログにはふさわしくないエロい写真で恐縮だが、表紙のインパクトに負けず、内容もすごい本なのだ。レジに持っていくのが恥ずかしいかもしれないし、6300円という値段も高いかもしれないが、ぜひとも手に取ってほしいと思っている。

「東京右半分」とは文字通りで、地図で東京の右側にある台東区、墨田区、江東区、葛飾区、荒川区といった下町地域を中心としたエリアを指す。世界のヘンなものを探し歩いた「珍世界紀行」シリーズで知られ、「天国は水割りの味がする」(廣済堂出版)でスナックの文化誌を活字化した著者が行き着いたのが「右半分」。安全・安心と清潔を求め、ブランド店やショッピングモールという大資本のパッケージ開発に蹂躙されてしまった東京の西側とは一線を画す秘境が東側にはある。

どこから紹介すればいいのか迷うほど「右半分」のジャングルは奥深い。伝説のグランドキャバレー「ハリウッド」は赤羽で時代を超えて健在だし、日暮里は社交ダンスでにぎわう。アジアという要素も重要だ。タイのカルチャーセンターまである錦糸町を「リトルバンコク」と著者は呼び、フィリピンパブの密集地・竹ノ塚に深く潜行する。浅草のふんどしバー、湯島の若衆バーは「右半分」の変態…いや偏愛さを浮かび上がらせる。日本画の美をファッションにリミックスした「和柄」は亀有が聖地だそうだ。

そんなディープなスポットの人々に肉迫したインタビューと、膨大な写真が収められている。こわいもの見たさであっても十分に楽しめる本だが、注目すべきは、その都市論だ。「獣が居心地のいい巣を求めるように、カネのない、でもおもしろいことをやりたい人間は、本能的にそういう場所を見つけ出す。ニューヨークのソーホーも、ロンドンのイーストエンドも、パリのバスティーユも…」。

都市社会学に「インナーシティ理論」というものがある。旧市街はいったん衰退し、その郊外が文化的に発展する。しかし郊外文化はやがて陳腐化し、再び旧市街(インナーシティ)がクリエーティブなパワーを持ち始めるという理論だ。旧市街は家賃も物価も安い。周囲に防衛本能の強いおカネ持ちもいない。だからマニアックな店もつくれるし、アナーキーな文化融合も起きるのだ。

ヘンなものに限らず、無国籍風のバーやコアなマイナーな音楽にこだわるカフェなども取り上げられている。本書は「右半分」が、ソーホーにも並ぶインナーシティであることを見事に証明したフィールドワークと言えよう。日本のソーホーは、昭和の遺産と、エスニックカルチャーと、ハングリーでクリエーティブな若者文化が、坩堝のなかでグツグツと煮込まれているのだ。

東京スカイツリーのせいで下町ブームなるものが起きているが、下町情緒を懐古するだけではつまらないし、意味がない。東京の下町はいま最もホットな前衛なのだと認識しながら、街を歩きてみようではないか。6300円は高いが、スナック2回分と思えばいい。どちらにおカネを使うにせよ、同様にむせかえるような人間くささに出合えることは請け合いだ。
『驚きの介護民俗学』
著者: 六車由実
出版社: 医学書院
参考税込価格: 2,100円
ISBN-10: 4260015494
ISBN-13: 978-4260015493
4260015494.jpg男女とも平均寿命が世界でもトップクラスにあり、高齢化が加速化している日本では、古希を迎える年齢になっても両親が健在であることが珍しくなくなった。そんなわけで、同年輩の仲間が集まると、必ずといっていいくらい話題になるのが親の介護問題。これが結構ややっこしい。親の処遇を巡って、それまで仲の良かった兄弟姉妹が、それぞれの連れ合いを巻き込んで、喧嘩なったり絶縁状態になるのもめずらしくない。一方、介護の現場も問題が多い。低賃金の割に長時間の過酷な労働が強いられる。高齢者の介護に関しては、預けるほうも預かるほうも、多くの難問を抱えることになる。

ところが、特別養護老人ホームのデイサービスで、介護職員として勤務している著者は、認知症を患う高齢者たちとの対話を、至福の時間だという。高齢者が集まる老人ホームには、宮本常一の『忘れられた日本人』に登場した人々と同様に、様々な地域で多様な人生を歩んできた人たちがたくさんいることに気づくのだ。かつて大学で教鞭をとり、『神、人を喰う』でサントリー学芸賞を受賞した気鋭の民俗学者でもある著者は、老人ホームはまさに「民俗学の宝庫」だとし、そこに聞き書きの無限大の可能性を感知する。

何の役にも立たず、他人の世話になっているばかりじゃあ生きる意味はない、まさに「生き地獄だ」とつぶやき、黙りこくる大正五年生まれの男性から、思いがけない馬喰(博労)の話を聞く。流しのバイオリン弾きをしていた男性。戦中から戦後にわたって、片倉工業に勤務して蚕の鑑別をしながら村々を回った女性の詳細な体験談。学生たちと村々を歩いてフィールドワークをしたときでさえ聞けなかった話がたくさんある。

デイサービスのレクリエーションでジェスチャーゲームゲームをしたとき。「脱穀機」や「餅つき」のお題を、長年の経験から身体に浸み込み刻み込まれた記憶をもとにして、鮮やかに再現して見せる豊かな身体的表現力に感心するとともに、1970年生まれの著者には知る由もない生活技術や暮らしの様相のリアルさに驚嘆する。「カラダの記憶」は遥かな時間を超えて蘇るのだ。

トイレの介助も各人各様。それぞれが暮らした地域や時代を反映して、それが身体の深い記憶の中に刻印されているのだろう。男にとって洋式トイレは馴染めず、立って小便しないと落ち着かない人。女性でもお尻をまくった立ちションの記憶が蘇ったのか、男性用のトイレで屈んで用を足す女性。「カラダの記憶」は、記憶の古層から突如露呈してくるものらしい。言葉の記憶も同様で、「トイレ」じゃあ納得せず「お手洗い」だったり「便所」だったり、あげくは「雪隠」だったり。中には昔の農家の外便所が、穴の上に板を二本渡し、それをまたいで用を足したことから「ニホンバシ」などという地域もあったことを利用者から教えられる。

こうした経験を通して、著者は「介護民俗学」という、新しい民俗学へのアプローチを指向する。とことん付き合いとことん記録する中から、忘れられていた個人の歴史が次第に浮かび上がってくる。著者はそれを「思い出の記」として文章化し、本人や家族に渡す。そこからまた、忘れられていた記憶がつむぎだされてくる。

中野重治が最晩年の柳田國男を訪ねたとき、同じ質問の繰り返しに愕然としたという。「同じ問いの繰り返し」は、認知症に典型的な症状なのだそうだ。著者は、認知症の人の「同じ問いの繰り返し」には、「同じ答えの繰り返し」が求められているのではないかと洞察する。民俗儀礼の問答では、繰り返される問いと、それに対する答えの反復という予定調和を演ずることで、日々の暮らしの安定が保証されてきた。一年に一度か一月に一度の民俗儀礼と違って、毎日毎日、数分おきに繰り返される認知症の人たちの問答は、それを繰り返すたびに、「安定と不安定、安心と不安、喜びと悲しみのあいだを、さまよい、生きているのだ」と著者は分析する。

認知症の周辺症状の幻聴や幻覚を、昔話の語りとの近似性で分析して見せるのも、長年フィールドワークで聞き書きをしてきた著者ならではの知見だ。驚くこと、そして、驚き続けること、それが「介護民俗学」を支えるいちばんのエネルギーになると著者はいう。介護する側が、利用者から聞き書きすることで「教えを受ける」という、一時的とはいえ介護者と被介護者の関係性の逆転というダイナミズムが、「生き地獄だ」などと言っていた高齢者の日常にも精彩を与えているようだ。それにしても、何らかの理由があったのだろうが、大学の准教授から介護職員に転身した気鋭の民俗学者の「介護民俗学」は、明日にでも訪れるであろう被介護予備軍のぼくらにとって、心強い一種の福音である。
『山伏と僕』
著者: 坂本大三郎
出版社: リトルモア
参考税込価格: 1,365円
ISBN-10: 4898153372
ISBN-13: 978-4898153376
4898153372.jpgある日突然、山伏になってみたいと思ったなら、この本はお勧めの1冊だ。妙な着物でホラ貝を吹いているヘンなおじさん、修験道とやらをきわめたいかつい異形の存在、ちょっと時代遅れじゃない、などという声が聞こえてきそう。しかし、いまでは老若男女を問わず、山伏修行はだれにでも開かれている。神社や寺への帰属を考えなければ、現代における山伏とは、山野を友とする哲人もしくはナチュラリストのことだと言ってもいいくらいだ。本書はそんな山伏をめざす若者による清新な魂の物語である。

お坊さんは別として、いまでは専業の山伏はほとんどいない。たいていの人が何らかの職業についていて、著者自身もイラストレーターだが、毎年8月の羽黒山での峰入り修行に参加している。別に神さま仏さまを信じているわけではないし、験力を身につけようとも願っていない。ただ、山伏が古代に「ヒジリ」(日を知る者)と呼ばれた、自然の知識をもつ祭祀者の末裔だとするなら、山伏修行を通じて、日本の自然と文化を深く理解したいというのが著者の思いなのである。

興味深かったのは、やはり最初の修行である。それは羽黒山大聖坊の山伏教室からはじまる。参加者は若い人を中心に男女あわせて30人ほどで、修行中は携帯もパソコンもテレビも禁止だ。まずは白装束に身を固め、道場で祝詞や般若心経を唱え、それからいよいよ山歩きの修行に出発する。はじめに2500段近い石段を登って羽黒山の合祭殿(本社)に向かう。本社で参拝をすませ、その先にある峰中堂、荒澤寺をへて大聖坊に戻るころには、参加者全員がくたくたになっている。

宿坊に戻り、茶碗に盛られたわずかなご飯をかきこむと、すぐに夜の山歩き、つづいて南蛮いぶしと呼ばれる荒行。これで涙や鼻水とともに罪けがれを落として、この日は就寝。翌日は日の昇らないうちに起きて、まず谷底の川で水浴びをし、それから食事、身支度をして、月山に向かう。いまでは8合目までバスを使うそうだ。月山頂上までの登りはきつい。「死者として修行するぼくたちは、月山の山頂ではなく、気が付かないうちに見知らぬ世界、他界へと連れて行かれてしまうようでした」と著者はそのときの感想を記している。

月山頂上で一休みし、おにぎりを食べたあとは、ゴロゴロした岩場を湯殿山へと下っていく。鎖場のある厳しい道だ。湯殿山のご神体は、温泉のあふれだす真っ赤な巨岩。そこで勤行をすませて崖を下りると滝があって、滝打ちの修行が待っている。バスで羽黒山に戻ってからも、夜の山歩き修行。そして、翌朝、水垢離をとって、ふたたび羽黒山頂の神社まで往復し、最後の勤行をすませると、3日間の修行が終わる。

これは一種の成人通過儀礼(イニシエーション)なのかもしれない。山伏の白装束は死者のシンボルだという。となれば、イニシエーションとは死を仮想体験することが目的であり、それによって生きるとは何かを学ぶことだといってもよい。大人になるとは、「死ぬことと見つけたり」なのだ。そのあともかずかずの修行をへて、著者はついに山伏となった。

「かつての山伏の姿を知り、山伏を体験するなかで、僕の中には、誰かの評価に左右される気持ちよりも深い部分に、『自然』が据えられるようになりました」と著者は書いている。かつて柳田国男は『山島民譚集』で、みずからを旅の山伏になぞらえて、里人の残した石塚をたどることを誓い、民俗学の道を切り開いたものだ。だとするなら、現在の山伏は、迷走しつづけるこの国に〈自然〉のまなざしと躍動を伝えなければならない。あまり気ばらずに。
『文学の極意は怪談である』
文豪怪談の世界
著者: 東雅夫
出版社: 筑摩書房
参考税込価格: 1,890円
ISBN-10: 4480823735
ISBN-13: 978-4480823731
4480823735.jpg私は怖がりで「怪談好き」ではないが、「ふしぎな話」を読んだり観たりする楽しみは堪能してきた。幽霊や異界の存在といったと超自然的な題材に対し、「現実的にあり得ない」などと思ったら、物語に心打たれる快感をとり逃がしてしまう。怪談奇談へのアプローチは人それぞれ。本書によると、生得のお化け好きで、怪談奇談の蒐集家だった芥川龍之介は、怪奇小説のよしあしを評価する軸として「怖いか、怖くないか」を重視していたという。本書の第10章「芥川龍之介 怖くなければ怪談に非ず」は、芥川の蔵書に記された書き込み(たとえばストーカーの『ドラキュラ』について、「くだらん小説だ/怪談もこうなっては一向怖く/ない/鏡花以下だね 我鬼/July 27th 1920 Tabata」と記している!)や芥川の妻の回想などから、芥川と怪談とのかかわりを論じている。芥川龍之介の一側面をあらたに知ると、芥川作品を読む楽しみがいっそう増す。

本書は、夏目漱石、森鴎外ら、「文豪」といわれる大作家たちがものした「怪談」に着目し、近現代の日本文学史を、「怪談」の視点から俯瞰した評論集。アンソロジストであり文芸評論家の著者は、「幻想文学」編集長を経て、現在は怪談専門誌「幽」編集長。ちくま文庫〈文豪怪談傑作選〉全18巻の編者も務め、その編者解説の文章などをベースにして本書は生まれた。「文豪と怪談」に着目した由来は、「はじめに」に記されている。〈畢竟、怪談を極めることと文学を究めることとは、いずれが先でいずれが後とも定めがたい、尽きることなき探求の営みなのであって、後者において卓越した業績を遺したことで、後世「文豪」と呼ばれるにいたった書き手たちの多くが、同時に「怪談の匠」たりえてもいることは、思えば当然の帰結なのであった〉。

続く本編は15章にわたり、佐藤春夫と稲垣足穂、川端康成、三島由紀夫、幸田露伴、夏目漱石、森鴎外、柳田國男、泉鏡花、小山内薫、芥川龍之介、小川未明、室生犀星、折口信夫、太宰治、そして吉屋信子について、それぞれ1章を割いて考察し、日本近代文学史の「怪談の系譜」をたどる。第1章「佐藤春夫と稲垣足穂」は、春夫と足穂が筋金入り(?)の幽霊屋敷で共同生活を送った大正11年の「化物屋敷事件」が書かれ、〝お化け〝に対した文豪の人間味がかいま見られて、どこかユーモラス。第4章「幸田露伴」には、昭和13年盛夏、10数年にわたって創作から離れていた晩年の露伴が、若い編集者を前に、1時間以上にわたってなんの淀みもなく自作の怪談を語りあげたようすが書かれている。この口述筆記を機に、創作欲を再燃させたという老文豪の「実話」は、生老病死の定めを打ち払うがごとくに雄々しい、「文豪の怪」だ。

本書は「文豪と怪談」にテーマを絞っているが、怪談の系譜は続き、そして現代の作家もすぐれた怪談奇談を続々と発表している。「ふしぎな話」の楽しみは尽きない。

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